カルトっぽい教会を離れた後の話・12

2016年2月4日木曜日

教会を離れた後の話

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 私の教会では、とかく「成長」が強調されていた。私たちがクリスチャンとして成長するのは「主の御心」だから、私たちは成長しなければならない、成長できないのはダメだ、信徒の成長は教会の成長だ、みたいなことを、いつも耳タコなくらい言われていた。

 だから「弟子訓練」が積極的に取り入れられていた。信徒は全員何らかの「弟子」になっていて、奉仕は何でもかんでも「訓練」だった。
 
 ちなみにうちの教会の場合、奉仕は「信徒が教会に仕える気持ちで(つまり好意で)するもの」などでなく、「信徒として当然の使命」であった。だから奉仕をして感謝されるなんてことは基本的になく(べつに感謝されたくて奉仕する訳でもないけれど)、何らかの奉仕を担っているのが当然だった。何の奉仕もない信徒、というのは基本的にあり得ない。いたとしたらすごく居づらいと思う。

 たとえば礼拝の司会者は、いわゆる「司会者の召し」を受けていて、だから司会をするのは当然で、しかもそれは「訓練」なので、イロイロ厳しくされる。講壇でしゃべるセリフから服装から態度から、表情から立ち居振る舞いから賛美の選曲から、実に細かく牧師からチェックされていた。リハーサルの段階からイロイロ言われ、礼拝中は牧師にジッと見られ、そして礼拝後は牧師からあれがダメだった、これもダメだった、次からああしろ、こうしろ、と「反省会」を持たせられる。それが毎週のように続く。牧師に言わせればそれは「必要な訓練」であり、「成長のための過程」であった。

 そんな風に、信徒はほとんど例外なく「弟子」になっていて、多少の差はあれ、牧師やリーダーたちから厳しく「訓練」されていた。パソコンで教会のコマーシャル映像なんかを作るチームは、徹夜で作業したのにダメ出しされて怒られて(なんで怒られなきゃならなかったんだろう)、もう一晩徹夜する、なんてザラだった。
 すべては「成長」のための「訓練」だった。牧師に言わせれば。

 でもその甲斐あってか、司会は結婚式の進行役みたいに卒がなく、受付はよく気が利き、楽器の演奏も照明も音響も「礼拝の演出」にバッチリ合っていた。よくできた学芸会とか、よく練習された音楽発表会みたいな感じだった。

 また奉仕以外にもイロイロあって、たとえば毎週のバイブルスタディ―とか、教会の(礼拝以外の)集会やイベントとかも、ほとんど強制参加だった。欠席したら後から何を言われるかわからない。それも「成長」のための「訓練」だった。

・クリスチャンとしての成長とは

 クリスチャンならではの成長、クリスチャンだからこその成長、クリスチャンに特有の成長、とは何だろうか。牧師があそこまでこだわった「成長」とは、いったい何だったのだろうか。

 一般的な意味の「成長」にも、いくつか種類があるだろう。簡単にまとめてみると、次のようになると思う。

■身体的成長
 身長が伸びたり、体が大人として機能するようになったり、思考力が付いたり、という種類の成長。これは放っておいても勝手に成長していく。

■身体能力的成長
 これはたとえば自転車の練習をして乗れるようになるみたいな、いわゆるスキルとしての成長。いろいろな種類があるけれど、反復練習とか学習とかで、次第に成長していく。勉強して成績が上がるのも、ここに分類されるだろう。

■精神的成長
 いわゆる精神力みたいなもの。大変な事態に直面して心が折れそうになったけれど、次に同じような事態に遭遇したときはそこまで折れそうにはならなかった、みたいなことがあると思う。精神の鍛練みたいなことだろうか。
 ただこれは、ストレス耐性を無理矢理身に付けさせられたみたいな側面もあると思う。つまり大きなストレスに耐えるため、心が変に歪んでしまった、みたいな負の側面もある。

■人格的成長
 これは精神的成長と明確に分けるのが難しいかもしれないけれど、たとえば昔に比べて寛容になったとか、人を許せるようになったとか、待つことができるようになったとか、そういう人格面にみられる成長。

■霊的成長(?)
 これがたぶん「クリスチャンとしての成長」に分類される種類の成長だと思うけれど、何がどうなったら「霊が成長した」と言えるのか、イマイチ曖昧だろうと思う。たとえば「どれだけ神の声を聞けるようになったかで霊的成長を計る」という意見もあるけれど、それが間違いなく神の声であると、どうやって判定するのか。

 さて、私の牧師が耳タコなくらい言い続けた「成長」は、この「霊的成長」のことだった。
 であるなら、司会者が司会においてスキルアップすることや、映像制作者が映像製作においてスキルアップすることが、どう「霊的成長」につながるのだろうか。司会の訓練をすれば霊が成長するのだろうか。だとしたら結婚式のプロの司会者とか、ニュースのキャスターとか、紅白歌合戦の司会者とかは霊的に成長しているのだろうか。映像制作者はものすごい霊的成熟者ばかりなのだろうか。そういう話は聞いたことがないけれど。

 べつに「クリスチャンとしての成長」を否定する気はない。たとえば聖書を通読して、どこに何が書いてあるかがだいたい把握できるようになったら、それは(霊的かどうかは関係なく)クリスチャンとしての成長と言えるだろう。あるいは聖書のオーダーをよく理解して行動できるとか、キリストが言う「愛」を理解して実践しようとするとか、適切な言葉で祈ることができるとか、そういうことも単純にクリスチャンとしての成長だと思う。そういう成長にケチをつけたいのではない。

 ただ「成長のための訓練だ」と称して信徒を怒鳴りつけたり、長時間奉仕を強要したり、失敗したり上手にできなかったりしたことで辱しめたりけなしたりするのは、単なる「虐待」であって「訓練」などではないし、ましてそれで「成長」するなんてこともない。ということが言いたいのである。

 それに当の牧師は海外で「厳しい訓練を受けた」らしいけれど、結局金銭問題とか女性問題とかを簡単に起こしている訳で、その「訓練」とか「成長」とかもすごく怪しい。というか人を平気で虐待している時点で、成長も何もない。

・教会を離れた後

 そして教会が解散となり、牧師も消えて、私たちは「成長しなければ」という呪縛から解放された。私個人はとても安堵した。そして立ち止まってみて、さて自分自身の「成長」について考えてみると、果たして何も成長していなかったことに気づかされた。たくさん祈ったし賛美したし礼拝したし奉仕したけれど、成長したのはそのスキルくらいで、全然霊的でも人格的でもない自分がそこにいるのである。ただ「成長しなければ」という強迫観念に突き動かされて、成長したつもりになっていただけの、哀れな人間であった。

 そのことに気づいた時が、最も空しい瞬間だったかもしれない。私のこれまでの人生において。

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