教会が解散になってイロイロ見たり聞いたり考えたりした結果、私は一つ大きな勘違いをしていたことに気づいた。「祝福」に関する勘違いである。
よくクリスチャンどうしの挨拶に「祝福がありますように」というのがあって、ほとんど定型文のようになっているけれど、私の教会で「祝福」を語る時、それはマジで真剣に本気で「祝福されなければならない」という意味を含んでいた。つまりそこは教会であり、自分たちは「神の民」であるのだから、祝福されて当然でしょう? 祝福されない理由などありますか? みたいなニュアンスがあった。思えばそれは「繁栄の神学」(だからそんなの神学じゃないんだってば)の影響が強かったためだろう。
信仰的な行い=祝福される
不信仰な行い=祝福されない
という単純な図式があった。
それで、ではどうすれば祝福されるのか? という話になる。そこはもう「信仰の行い」である。毎週ちゃんと礼拝しなさい。礼拝以外の集会にも参加しなさい。何か奉仕を担当しなさい。よく献金しなさい(それはあなたの為だから・・・)。よく祈りなさい。よく聖書を読みなさい。毎日「デボーション」しなさい。よく伝道しなさい(未信者を教会に連れてきなさい)。牧師を尊敬し、たとえ意見が合わなくても従いなさい(それもあなたの為だから・・・)。
という訳で様々な行いが信徒に課せられるのだった。それは全て「クリスチャンとして当然の行い」であり、それらをしていれば当然「祝福される」とされていた。それを拒否するという選択肢はなかった。拒否するなら、なんでクリスチャンやってるんですか? なんで教会に来るんですか? という話になる。
そこでは「祝福されない」状態でいることは、イコール不信仰であり、何か罪や問題があるのではないかと勘繰られてしまう。祝福されることがベーシックなのだから当然だろう。そして牧師や役員や長老やリーダーといった人たちは「信仰に進んだ者」であり、「祝福されない」なんてことがあるはずがない。そうでないと教会の根幹が揺らいでしまう。
でも実際問題として、そんな簡単に祝福が舞い込んでくるなんてことはない。私の教会は依然として貧しかったし、何年経っても人は増えなかったし、目に見えて何かが発展していくこともなかった。じゃあ祝福されていない自分たちは不信仰なのか? いやいやあの「牧師先生様」がいるのだから不信仰なんてありえない。礼拝も盛り上がってるし、賛美も祈りも熱いし、泣いたり笑ったりの「生きた」教会なのだから、必ず祝福されるはずだ・・・。
そこに矛盾があった。自分たちは祝福されるべき存在なのに、実際には何も起こらない。なぜか? そこで導き出されるのは、「自分たち以外に原因がある」という考え方だ。自分たちは悪くない。むしろ受けるべき祝福を「まだ」もらえていない。これは不当だ、となる。そして大まかに言って、次の二つに原因を絞る。
・悪魔が祝福を妨げている
・まだ神の時でない(今は待たなければならない)
という訳で私たちは悪魔との戦いに乗り出すことになった。「霊の戦い」が盛んに語られるようになり、実際に行われ、夜な夜な神社仏閣とかの「霊的重要スポット」に足を運ぶようになった。そこで悪魔に向かって絶叫し、手を振り回して「出ていけ」と命令し、勝利を宣言した。そしてなにか勝った気になって、意気揚々と帰るのだった。
しかしいくら「霊の戦い」をし、悪魔たちに「打ち勝って」も、実際的には何も起こらない。気分は勝利に満ちているけれど、気分だけの話であって、お金もないし人も来ない。何かが発展することもない。人が増えたとしても、それはどこかで噂を聞きつけてきた「霊的クリスチャン」たちばかりで、新来者など一人もいない。
そこで登場するのが第二の原因である。
「まだ神の時でない」
だから私たちは忍耐して、涙して、耐えなければならない。この貧しさに。この忙しさに(キリストの弟子たちも忙しかったでしょう?)。この何も起こらない雰囲気に。そして本当に涙して、「神様、まだですか」と嘆くのである。すごく敬虔っぽく見える。実際には互いの傷を舐め合ってるだけなんだけど。
だから結果的に、私たちは「祝福」されるのをひたすら「待つ」ことになる。ずっとずっと待つのである。一年でも二年でも、いや十年でも二十年でも。忍耐できず待てないのは不信仰であって、約束のものを得ることができない態度だ、と言われる。だから忍耐するしかない。そして40日断食とか、ダビデの幕屋の礼拝とか、和解の務めとか、イロイロ新しい方法論が出る度に「今度こそ」と思うけれど、期待に反して何も起こらない。
という訳で、いつ来るともわからない何かを私たちはただ待ち続けていた。そして最終的に私たちに訪れたのは、教会の解散というまさかの事態だったのは今まで書いてきた通り。
教会という場において、神の名によって実現すると言われてきたことが、ことごとく起こらなかった。これをどう捉えたらいいだろうか。その「祝福の約束」に、神は関与していたのだろうか。神が約束を違えたのだろうか。しかし聖書を読むと、神が約束を違えたという記述はどこにもないのだけれど。また約束を簡単に違える方だとしたら、その「神」は信じるに値しないと思うのだけれど。
当時の私たちの状態をたとえるなら、目の前にニンジンをぶらさげられた馬が延々と走り続けるようなものだった。いつまで経ってもニンジンにありつくことはできない。いつかニンジンを食べることができるという幻想だけ抱いて、虚しく走り続けるのだ。
そしていつか馬は気づく。素晴らしい道を走っていたはずが、何もない道だったことに。沢山の成果をあげてきたはずが、何一つ成し遂げていなかったことに。そしていつか食べられるはずだったニンジンが、影も形もない、ただの幻だったことに。
「祝福」について私が気づいたことの一つは、信仰的だから必ず祝福されるとか、不信仰だから必ず祝福されないとか、そういうルールはないということだ。どんなに信仰的で敬虔で霊的な人間にも、解決できない問題や葛藤はある。お金のことや仕事のこと、人間関係のことなどで誰もがいつも悩んでいる。順風な時ばかりではない。むしろ逆風の方が多いかもしれない。だから「こうすれば必ず祝福される」という論法は、実は信仰的でも宗教的でもなく、巷に溢れる詐欺商法の手口とほとんど変わらない。
逆に「祝福されなさそうな」人たちにも神の祝福はある。たとえば今日も地球は回っているし、大気組成は人間の生存に適している。定期的に雨も降る。罪深いと思われる人たちにも、そんなふうに今日も沢山の恵みが注がれている。
それに考えてみれば、救われる前の私たちだって十分罪深かったはずだし、今だって罪はある。その私たちに救いが与えられたのは、祝福に値しない者に一方的に与えられた恵みに他ならない。だから「祝福」とは神が決めるものであって、私たち人間の側が「自分は祝福されるはず」とか「あいつは祝福されない」とか決めつけていいものではない。
それは考えれば当たり前なことなのだけれど、私たちはいつの間にか、そういう大事なことを見失ってしまってしまう。
それに気づけたことを考えると、私の教会の解散は、ある意味で「祝福」だったのかもしれない、と私は今にして思う。
読ませて頂きながら思いました事は、繁栄の神学や教会成長と言う、信仰を商売とさせる魔法に取り込まれると、人は周りが見えなくなる、と言う事です。
返信削除与える側も受ける側も。
例えば数字の世界の営業の仕事であれば、売上目標額と粗利益目標額を定めて、一心不乱に仕事をしますが、それを宗教と言う商品に置き換えただけの話ではないですか。
あと一つ。
今所属している教会も、一歩間違えば同じ道を歩むかも知れないですね。
ある一線を越えていないだけで、弟子訓練やQTをやったり、エンパワードの話やそう言う流れの事も説教で触れたりしていますので。
ねずみ講や詐欺商法と変わらない、と言うか、まったく会員に儲けがなくて、神の名で寄附する一方(金と身体)と言うのが、本当に悪質です。
マリックさんのいっている教会は弟子訓練をやっているのですか?これを導入している、あるいは導入する可能性のある教会には行くなといわれています。。
削除「一歩間違えれば」ではなく、もうすでに「十歩も二十歩も間違えている」のではないかと思います。
エンパワードも感心しません。QTというのは聞いたことがないのでわかりませんが、韓国の新興宗教系プロテスタントがらみのムーブメントか何かですか?
QT即ちQuietTimeで、かつて英語圏からもたらされた物は、静思の時と言う題名でしたが、今回の物はやはり韓国からで、それも日本でリビングライフを刊行している、あのオンヌリ教会を母体とする出版社がらみの物です。
削除牧師がCGN-TVに出演するなど、すっかり韓流にヤられているのです。
私はこの1月から仕事の忙しさを理由に(本当の事ですが)離れつつありますが、家内は離れようとしませんので、困っております。
やはり韓国の新興宗教系プロテスタントがらみですか。朝鮮半島由来のものはおかしなものばかりです。プロテスタントは朝鮮半島とかかわってしまったら、もうその時点で死んだも同じです。
削除CGN-TVも出ている教会の顔ぶれをみると、いかにも怪しげな新興宗教系プロテスタントの教会ばかりです。私だったらお金をあげるから来てくださいと懇願されてもノーサンキューなところばかりです。
こんなおかしなところによく奥さんは通っていられるものだと口をあんぐりです。離れようとしないとは、ご家族の皆さんは本当に困っているのではないかと・・・
早くこんな朝鮮半島大好きな新興宗教系プロテスタントと縁が切れる日が来ますように。
一応こういうときのために日本では縁切り寺や縁切りに霊験あらたかな神社もありますので、そちらのほうに参拝にいかれるといいのかもしれません。絵馬に「奥さんが新興宗教系プロテスタントと縁が切れますように」と書いて願掛けをするのも一つの手です。
また塩まじないも、悪い縁や腐れ縁を切るのに、それなりに効果があるとも聞いています。塩まじないなら家の中でも簡単にできますのでおすすめです。
そんな教会にも聖書はあるはずなのに、
返信削除ヨブ記もヨハネ福音書16章33節も気にしないのですね。
ご都合主義ですね((( ̄へ ̄井)
削除何時でも自分の主張のみが正しいのです��
日本人はそもそもキリスト教の教えの基本知識がない。
返信削除だから、行った先で教えられた事は、正しい教義だと信じ込む。聖書と聖歌と主の祈りでカムフラージュされるのです。
だから霊の戦いや弟子訓練にコロッと騙されても気付けない。騙された方は自分の知識のなさを振り返る事から始める必要がありますね。
キリスト教の教えの基本知識がないというより、日本にはキリスト教そのものを全く知らない人だらけといったほうがいいのかもしれません。
削除変な話ですが、新興宗教系プロテスタントでは、聖職者自体がキリスト教を知らなかったりもします。もちろんキリスト教のメディアにもこれと同じことが言えると思います。
興味深い事実があります。それはクリスチャンホームの二世です。クリスチャンホームで生まれ育った彼らは、しばしば「自分ほどキリスト教をよく知っている人間はいない」と主張しています。しかし二世たちと話していて、「あなたこんなことも知らないの?」と仰天したことが何度もありました。
クリスチャンホームの二世が知っているのは、せいぜい「親が通っていて、自分もそのまま何の疑問もなく通っている教会の情報だけ」であって、それ以外のことについては実は全然知りません。二世にキリスト教について尋ねたり教えてもらったりしてはいけません。彼らが一番ものを知らないのですから。
確かにクリスチャン二世だからといって信用はできませんね。
返信削除自分はキリスト教のプロだと思っている分、タチが悪いです。
パリサイ派と同じです。
しかし、それに気づかないところが、キリスト教会を根本から引っ掻き回します。
時には、「この世の法律や教会規則を平気で犯しても、神の為だからいい」とか犯罪に加担する人もいますし。信じられません。
二世はしばしば聖職者の道を歩みますよね?これが一番困るわけですよ。
削除「世間法より神法が上」という価値観でずーっときている人たちですからね。
ひどい家になると「進化論を教える学校にうちの子はやらない」といって、学校にやらずにチャーチスクール・ホームスクールで教育して、そのあとは箔をつけようとアメリカの神学校にやるコースを歩ませることもありますよね。そこで出来上がるのが一般常識のない聖職者ですよ!
新興宗教系のプロテスタントの家に生まれ育った人は、たとえ普通に近所の公立に通っていたとしても、Hi-baやKGKに入会してバリ活になってしまい、卒業後には会社勤めをすることもなく、そのままKGKでスタッフになってしまって、何年かすると神学校に進んで聖職者になるというコースを歩んでしまう人の多いこと。
これは新興宗教系のプロテスタントの業界ではエリートコースということになり、息子や娘がこのコースを歩むと、親にとっては鼻高々になるわけですね。でも赤の他人が見たら、一般教養もろくになく、非クリスチャンホームの子供が経験するようなことは何一つ経験もせず、あちこちで無知をさらけだして、世間の笑いものになってしまっていますよ(笑)。
|確かにクリスチャン二世だからといって信用はできませんね。
返信削除|自分はキリスト教のプロだと思っている分、タチが悪いです。
|パリサイ派と同じです。
まぁ、そのへんにしときましょう。
彼らとて、好きでキリスト者の子供に生まれてきたわけではない。
遊びたい盛りに、日曜日は教会に連れられ行かされ、
中学校でも体育会や吹奏楽部に入れなかったりして。
ましてや牧師の子供は、ガキのころから信徒の生暖かくも厳しい視線にさらされて、
日頃の立ち居振る舞いばかりか、学業までチェックされて、
教会学校の子供には、牧師の子供だからというので、
勝手に部屋に入られたり、おもちゃや本を台無しにされたり、
いろいろな目にあっていると聞くし。
|時には、「この世の法律や教会規則を平気で犯しても、神の為だからいい」とか犯罪に加担する人もいますし。信じられません。
それについては、ロイドジョンズの「御霊に満たされることの意味」の22ページに
多くの点でキリスト教の最大の敵は道徳だからである。
十字架のキリストの最大の敵どもは、今日こうした道徳的な人々である。
と記されている、すなわち、
キリスト教は「道徳」の上位にくる存在で、それを超えるものである、
キリスト者は聖書の言葉か聖霊の命令でなければ、
主の体であるキリスト教会の承認がなければ、
何をしても良しとされず、
その逆は、世間的に良くないことであっても、
アリということもある!
ということになりかねないのです。
それが英国の「保守的福音派」の指導者の50年以上前の説教の核であると。
カルトという概念があったかどうかもわからない古の時代の人間の言葉を、
21世紀のいま、あらためて考え直さなければならないようにも思えます。
SNSでも納得してしまう事例を見てきたし
オウム神理教やISISみたいで怖ー。
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