カルトっぽい教会を離れた後の話・13

2016年2月13日土曜日

教会を離れた後の話

t f B! P L
 教会が解散になってイロイロ見たり聞いたり考えたりした結果、私は一つ大きな勘違いをしていたことに気づいた。「祝福」に関する勘違いである。

 よくクリスチャンどうしの挨拶に「祝福がありますように」というのがあって、ほとんど定型文のようになっているけれど、私の教会で「祝福」を語る時、それはマジで真剣に本気で「祝福されなければならない」という意味を含んでいた。つまりそこは教会であり、自分たちは「神の民」であるのだから、祝福されて当然でしょう? 祝福されない理由などありますか? みたいなニュアンスがあった。思えばそれは「繁栄の神学」(だからそんなの神学じゃないんだってば)の影響が強かったためだろう。

信仰的な行い=祝福される
不信仰な行い=祝福されない

 という単純な図式があった。
 それで、ではどうすれば祝福されるのか? という話になる。そこはもう「信仰の行い」である。毎週ちゃんと礼拝しなさい。礼拝以外の集会にも参加しなさい。何か奉仕を担当しなさい。よく献金しなさい(それはあなたの為だから・・・)。よく祈りなさい。よく聖書を読みなさい。毎日「デボーション」しなさい。よく伝道しなさい(未信者を教会に連れてきなさい)。牧師を尊敬し、たとえ意見が合わなくても従いなさい(それもあなたの為だから・・・)。

 という訳で様々な行いが信徒に課せられるのだった。それは全て「クリスチャンとして当然の行い」であり、それらをしていれば当然「祝福される」とされていた。それを拒否するという選択肢はなかった。拒否するなら、なんでクリスチャンやってるんですか? なんで教会に来るんですか? という話になる。

 そこでは「祝福されない」状態でいることは、イコール不信仰であり、何か罪や問題があるのではないかと勘繰られてしまう。祝福されることがベーシックなのだから当然だろう。そして牧師や役員や長老やリーダーといった人たちは「信仰に進んだ者」であり、「祝福されない」なんてことがあるはずがない。そうでないと教会の根幹が揺らいでしまう。

 でも実際問題として、そんな簡単に祝福が舞い込んでくるなんてことはない。私の教会は依然として貧しかったし、何年経っても人は増えなかったし、目に見えて何かが発展していくこともなかった。じゃあ祝福されていない自分たちは不信仰なのか? いやいやあの「牧師先生様」がいるのだから不信仰なんてありえない。礼拝も盛り上がってるし、賛美も祈りも熱いし、泣いたり笑ったりの「生きた」教会なのだから、必ず祝福されるはずだ・・・。

 そこに矛盾があった。自分たちは祝福されるべき存在なのに、実際には何も起こらない。なぜか? そこで導き出されるのは、「自分たち以外に原因がある」という考え方だ。自分たちは悪くない。むしろ受けるべき祝福を「まだ」もらえていない。これは不当だ、となる。そして大まかに言って、次の二つに原因を絞る。

・悪魔が祝福を妨げている
・まだ神の時でない(今は待たなければならない)

  という訳で私たちは悪魔との戦いに乗り出すことになった。「霊の戦い」が盛んに語られるようになり、実際に行われ、夜な夜な神社仏閣とかの「霊的重要スポット」に足を運ぶようになった。そこで悪魔に向かって絶叫し、手を振り回して「出ていけ」と命令し、勝利を宣言した。そしてなにか勝った気になって、意気揚々と帰るのだった。

 しかしいくら「霊の戦い」をし、悪魔たちに「打ち勝って」も、実際的には何も起こらない。気分は勝利に満ちているけれど、気分だけの話であって、お金もないし人も来ない。何かが発展することもない。人が増えたとしても、それはどこかで噂を聞きつけてきた「霊的クリスチャン」たちばかりで、新来者など一人もいない。

 そこで登場するのが第二の原因である。
「まだ神の時でない」
 だから私たちは忍耐して、涙して、耐えなければならない。この貧しさに。この忙しさに(キリストの弟子たちも忙しかったでしょう?)。この何も起こらない雰囲気に。そして本当に涙して、「神様、まだですか」と嘆くのである。すごく敬虔っぽく見える。実際には互いの傷を舐め合ってるだけなんだけど。

 だから結果的に、私たちは「祝福」されるのをひたすら「待つ」ことになる。ずっとずっと待つのである。一年でも二年でも、いや十年でも二十年でも。忍耐できず待てないのは不信仰であって、約束のものを得ることができない態度だ、と言われる。だから忍耐するしかない。そして40日断食とか、ダビデの幕屋の礼拝とか、和解の務めとか、イロイロ新しい方法論が出る度に「今度こそ」と思うけれど、期待に反して何も起こらない。

 という訳で、いつ来るともわからない何かを私たちはただ待ち続けていた。そして最終的に私たちに訪れたのは、教会の解散というまさかの事態だったのは今まで書いてきた通り。

 教会という場において、神の名によって実現すると言われてきたことが、ことごとく起こらなかった。これをどう捉えたらいいだろうか。その「祝福の約束」に、神は関与していたのだろうか。神が約束を違えたのだろうか。しかし聖書を読むと、神が約束を違えたという記述はどこにもないのだけれど。また約束を簡単に違える方だとしたら、その「神」は信じるに値しないと思うのだけれど。

 当時の私たちの状態をたとえるなら、目の前にニンジンをぶらさげられた馬が延々と走り続けるようなものだった。いつまで経ってもニンジンにありつくことはできない。いつかニンジンを食べることができるという幻想だけ抱いて、虚しく走り続けるのだ。

 そしていつか馬は気づく。素晴らしい道を走っていたはずが、何もない道だったことに。沢山の成果をあげてきたはずが、何一つ成し遂げていなかったことに。そしていつか食べられるはずだったニンジンが、影も形もない、ただの幻だったことに。

「祝福」について私が気づいたことの一つは、信仰的だから必ず祝福されるとか、不信仰だから必ず祝福されないとか、そういうルールはないということだ。どんなに信仰的で敬虔で霊的な人間にも、解決できない問題や葛藤はある。お金のことや仕事のこと、人間関係のことなどで誰もがいつも悩んでいる。順風な時ばかりではない。むしろ逆風の方が多いかもしれない。だから「こうすれば必ず祝福される」という論法は、実は信仰的でも宗教的でもなく、巷に溢れる詐欺商法の手口とほとんど変わらない。

 逆に「祝福されなさそうな」人たちにも神の祝福はある。たとえば今日も地球は回っているし、大気組成は人間の生存に適している。定期的に雨も降る。罪深いと思われる人たちにも、そんなふうに今日も沢山の恵みが注がれている。

 それに考えてみれば、救われる前の私たちだって十分罪深かったはずだし、今だって罪はある。その私たちに救いが与えられたのは、祝福に値しない者に一方的に与えられた恵みに他ならない。だから「祝福」とは神が決めるものであって、私たち人間の側が「自分は祝福されるはず」とか「あいつは祝福されない」とか決めつけていいものではない。

 それは考えれば当たり前なことなのだけれど、私たちはいつの間にか、そういう大事なことを見失ってしまってしまう。
 それに気づけたことを考えると、私の教会の解散は、ある意味で「祝福」だったのかもしれない、と私は今にして思う。

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