クリスチャンの「知恵」と、「知恵でないもの」について考えてみたい。
と言っても難しい定義をするつもりはなく、単にイロイロなクリスチャンの言動から「もうちょっと考えるべきでは」と思ったことを挙げつつ、クリスチャン的「知恵」って何だろうということを模索してみたい。という試み。
・あるセミナーにて
チャーチスクールの生徒が集まるセミナーがあって、私もそこにいた。分科会で、対象は小学校高学年。講師はある若手牧師(いわゆる2世牧師)だった。
牧師がにこやかに登壇し、元気よく挨拶して、開口一番、「みんな、みんなはもう生きる意味ってわかってるよね!」
確か、「クリスチャンとしていかに生きるべきか」みたいなテーマだったと思う。小学生にはちと重そうなテーマだったけれど、誰がどう決めたテーマなのかはわからない。
という訳でセミナーが始まった。「クリスチャンであるみんなならもうわかっていることだから、いちいち説明するまでもないけど、僕たちは神様の為に生きてるんだよね!」
うん、それで? と続きを待っていると、「それがこの分科会の結論なんだけど、これだともう話が終わっちゃうよね」
そしてワハハハ・・・という笑い声。分科会は確か45分くらいだったから、もちろんその後も話は続いたんだけど、正直言って何も覚えていない。笑い話とか体験談とか、どうでもいい話が延々と続いたからだ。最後まで。
結局、「クリスチャンは神様のために生きる」以外のメッセージは何もなかった。
たぶんその若手牧師、ロクに準備しないで来たんだと思う。小学生相手だから笑わせておけばいいと思ったかどうかわからないけれど、あれだと何のセミナーだかわからない。肩透かしを食らった感の小学生も、少なくなかったと思う。
「クリスチャンは神様のために生きる」というのは、まあその通りと言うか、全然間違っていないと思うけれど、その一文で済ませられるほど、人生は簡単ではないと思う。「神様のために生きてます!」といつも笑っていられれば良いけれど、仕事とか人間関係とか家族とかお金とか教会内の揉め事とか、日々イロイロあるし、どれも簡単ではない。むしろ大いに悩まされる。
でもそれはちょっと考えればわかることだ。「神様のために生きてます。以上!」で話が終わってしまうのは、明らかに何も考えてない。クリスチャン的「知恵」とはほど遠い。
それに「神様のために生きる」ってザックリ過ぎるでしょう。その字面は理解できるとして、小学生がどこまでその中身をイメージしているか? を考えたら、もうちょっと話すべきことがあるでしょうに。
・ある礼拝にて
ある教会の日曜礼拝に出席して、滞りなく終わった。そこは「熱い」教会で、終わると皆で互いにハグしたり握手したり祈り合ったりする。私は新来者だったのでその渦中にはいなかったけれど、帰り際、そこの若手牧師に握手を求められた。笑顔で応じた私に、若手牧師。「今日はどのような経緯で私どもの教会へ?」
私より少し若いかな、という見た目の牧師だった。カッコいい革ジャンで、満面笑みである。私はちょっと意地悪な気持ちになって言った。「実は自分の教会が解散してしまいまして」
革ジャン牧師は「そーですかー。それは大変でしたねー」と軽い口調で笑顔のまま言う。そして、「何か、お祈りすることはありますか?」とやはり笑顔のまま尋ねてくる。「大丈夫です」と私は言ってその教会を出た。以来一度も行っていない。
・ある「お勧め」
私の記事や発言を見たあるクリスチャンからこんな言葉をいただいた。「神を信じるとは? 信仰とは? 原点に戻って今一度お考えになることをお勧めします」
発言の意図はよくわからないけれど、まあ私の発言が気に入らなかったのは間違いない。べつに私の発言を気に入ってもらう必要はないし、大切なのはそこではない。大切なのは私の発言がどういうものか、である。そこに何か間違いがあると思うなら、「何が」「どうように」間違っているのか、ハッキリと指摘するべきだ。それなら私も応えたい。単に「考え直せ」では何も伝わらない。
ちなみにその人物に言わせると私は怒っていることになっていて、全然怒っていなかったんだけど、何だかなあ。
ちなみに私の記事や発言を見て「うるせー」とか「こんなの小物」とか「根性無し」とか小学生みたいな反応をする輩(もしかしたら現役小学生かもしれない)もいて、べつに小物でも根性無しでも何でもいいんだけれど、答えは同じ。「何が」「どうように」間違っているのか指摘してみたらどうだろう。できなくて悔しいのかな。まあ無礼な人には応えないけど。
・とりあえず結論
結局イロイロな「浅はかな発言」を挙げただけだけれど、まあこういうのは「知恵」とは言わない。では「知恵」とは何だろうか。少なくとも簡単に答えを出さないで考えてみることが「知恵」に繋がるだろうとは思う。