大勢に貢献できるけれど、身近な人々に貢献できない人

2020年4月30日木曜日

雑記

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 ある有名芸能人が、自身が主催するイベントの最中にペットボトルの水が出てきて、眉をひそめた。彼はスタッフに耳打ちして、グラスに入れて出し直すようその場で指示した。ペットボトルに口をつけて飲むなんて、スマートじゃないよ、というのが彼の高い美意識なのだった。

 というエピソードを聞いて、「この人はきっとパワハラ/モラハラ気質なんだろうな」とわたしは思った。そういう細かいところに、人の本質が現れる。

 もちろんこのエピソードだけで彼をパワハラ/モラハラ人間だと決めつけることはできない。けれど①自分の流儀(美意識)を貫かないと気が済まず、②そのためならイベント中のスタッフでも当然のように使う、という点がすごく怪しいと思う。少なくともわたしは、(仮にそういう機会があったとしても)彼のもとで働きたいとは思わない。大変な目に遭いそうだから。

 その人は芸能界で華々しい活動をしていて、発言も好印象で、人気を集めている。どこかで災害が起これば必ずと言っていいほど多額の寄付をする。人気だけでなく、社会貢献度も大きい。彼に助けられた人は少なくないだろう。

 しかし、彼を身近で支える人たち(スタッフなど)は、すごく辛い思いをさせられているのではないか……とわたしは心配になった。

 というのは、キリスト教会でも同じような光景を見てきたからだ。
 有名な、あちこちで活躍する好印象の牧師さんが、家族や直属のスタッフたちにはメチャクチャ厳しくて、外部向けに語る優しい言葉の数々はあくまで「外部向け」でしかない、というようなケースがあった。

 スタッフは日々コキ使われ、厳しくされる。奴隷並みに扱われることもある。そうしたスタッフたちの苦労と涙の上に、彼の華々しく美しい世界が展開される。外部の人たちはそれを見て感動し、彼を尊敬する。内情を話しても、誰も信じない。

 彼が社会的に貢献し、大勢の役に立っているのは間違いない。しかし身近な人たちがその犠牲になっている。
 大きな貢献のためなら、小さな犠牲は止むを得ない、ということだろうか。そういうのを功利主義と言う。キリスト教精神と合致するかどうかは、疑わしいところだとわたしは思う。

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