クリスチャンは「真理」を知っているのですか?

2018年7月14日土曜日

雑記

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「クリスチャン」と言ってもいろいろな人がいますね。

 どこかの教会に所属している人(教会員)もいれば、私みたいな「お客さん」もいます。

 毎週日曜の礼拝を欠かさない人もいれば、たまにサボる人もいます。中にはサボると地獄に落ちると信じている人もいます。

 頑張って奉仕活動する人もいれば、できるだけ奉仕なんてしたくないと思っている人もいます。中には奉仕しないと牧師に殺されかねない人もいます。

 真面目に収入の10分の1を献金する人もいれば、できるだけ献金したくないと思っている人もいます。中には献金しないと牧師から電話が掛かってくる人もいます。

 カトリックの人もいれば、プロテスタントの人や正教会の人、コプト教会の人などもいます。プロテスタントも中でいろいろ枝分かれしていて、日本基督教団とかルーテル派とか、福音派とか聖霊派とか、いろいろいます。

「クリスチャン」と言ってもいろいろです。中には教派が違うだけで、「本当に同じキリスト教ですか」ってくらい違うこともあります。たぶん知らない人はびっくりするでしょうね。良くも悪くも。

 私個人は、いろいろな種類のいろいろな人がいていいと思っています。いろんな色があった方が面白いですから。聖歌もゴスペルもクリスチャンロックも、私は好きです。どれか一つしかなかったら、ちょっと寂しいでしょうね。

 ただ問題は、自分と違う人たちにダメ出しする、自称「本当のクリスチャン」たちです。
 自分(たち)は「本物」だけど、他の人たちはどこか間違っている、と主張して憚らない人たちですね。

 先日も友人から、そんな人たちの、こんなツィートを教えてもらいました。
 
「わたしは真理を知っている。知らない人たちはかわいそう」

 うーん。キリスト教の「真理」って何でしょう。私もいろいろ勉強してきましたけど、これはちょっと何言っているかわからないですね(←サンドウィッチマンふうに読んで下さい)。

 真面目な話、なんで自分(たち)だけが「真理」を知っていて、他の人たちは知らない、と断言できるのでしょう。その根拠はなんですか。あまたいる研究者たちのこれまでの成果を差し置いて、なぜ自分(たち)だけが「真理」に到達できた、と思えるのでしょう。

 そういう「自称本物」たちは、聖書を熱心に読んで調べているようですが、ある大切な箇所を読んだことがないか、あるいはそのページだけ破れているのではないかと思います。ピリピ人への手紙3章12節に、こんなことが書いてあるからです。

「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである」(口語訳)

 これはキリスト教の教理体系を構築した、パウロという人の言葉です。
 そのパウロが、「自分はまだ途中だ」「今も一生懸命追い求めている」と言っているのですね。

 でもそう言うのは、パウロの知識が不十分だったからではありません。実際には十分だったと思いますよ。ただ彼は、それでも「追い求める者」でありたかったのでしょう。「到達した」と思って立ち止まるのでなく、「まだ何かあるかも」と探し求めたかったのでしょう。

 だから「真理を知っている」などと、パウロは言わなかったのだと思います。

 であるなら、現代に生きる私たちも同じではないでしょうか。どれだけ勉強し、研究しても、「これで十分」と思ったらそこまでです。「まだまだ知るべきことがある」と思った人が、その先へ進んで行きます。

 だから「真理を知っている」などと豪語して憚らない「自称本物」の皆さんは、少なくともパウロの言葉を正しく理解していません。
 知らないことに気づいていない人たちの方が、「かわいそう」だと私は思うのですけどね。

 私たち宗教を奉ずる人間は、できるだけ視野を広く持つべきです。いろいろな角度から自分の宗教を見つめ直し、検証すべきです。そしてできるだけ物事を決めつけないで、可能性という余地を残しておくべきです。
 でないと狭い部分しか見ないで、「これぞ真理だ」と早まった結論を出してしまって、あとで間違いに気づくことになるかもしれません。

 と、ここまで書いて、ふと気付いたことがあります。
「自称本物」が言った「真理」とは、もしかして Truth でなく、 Mari という名前の女性だったのでは?

「わたしはマリを知っている。知らない人たちはかわいそう」

 あ、やっぱりちょっと何言ってるかわからないですね(←サンドウィッチマンふうに読んで下さい)。

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