「クリスチャン」と言ってもいろいろな人がいますね。
どこかの教会に所属している人(教会員)もいれば、私みたいな「お客さん」もいます。
毎週日曜の礼拝を欠かさない人もいれば、たまにサボる人もいます。中にはサボると地獄に落ちると信じている人もいます。
頑張って奉仕活動する人もいれば、できるだけ奉仕なんてしたくないと思っている人もいます。中には奉仕しないと牧師に殺されかねない人もいます。
真面目に収入の10分の1を献金する人もいれば、できるだけ献金したくないと思っている人もいます。中には献金しないと牧師から電話が掛かってくる人もいます。
カトリックの人もいれば、プロテスタントの人や正教会の人、コプト教会の人などもいます。プロテスタントも中でいろいろ枝分かれしていて、日本基督教団とかルーテル派とか、福音派とか聖霊派とか、いろいろいます。
「クリスチャン」と言ってもいろいろです。中には教派が違うだけで、「本当に同じキリスト教ですか」ってくらい違うこともあります。たぶん知らない人はびっくりするでしょうね。良くも悪くも。
私個人は、いろいろな種類のいろいろな人がいていいと思っています。いろんな色があった方が面白いですから。聖歌もゴスペルもクリスチャンロックも、私は好きです。どれか一つしかなかったら、ちょっと寂しいでしょうね。
ただ問題は、自分と違う人たちにダメ出しする、自称「本当のクリスチャン」たちです。
自分(たち)は「本物」だけど、他の人たちはどこか間違っている、と主張して憚らない人たちですね。
先日も友人から、そんな人たちの、こんなツィートを教えてもらいました。
「わたしは真理を知っている。知らない人たちはかわいそう」
うーん。キリスト教の「真理」って何でしょう。私もいろいろ勉強してきましたけど、これはちょっと何言っているかわからないですね(←サンドウィッチマンふうに読んで下さい)。
真面目な話、なんで自分(たち)だけが「真理」を知っていて、他の人たちは知らない、と断言できるのでしょう。その根拠はなんですか。あまたいる研究者たちのこれまでの成果を差し置いて、なぜ自分(たち)だけが「真理」に到達できた、と思えるのでしょう。
そういう「自称本物」たちは、聖書を熱心に読んで調べているようですが、ある大切な箇所を読んだことがないか、あるいはそのページだけ破れているのではないかと思います。ピリピ人への手紙3章12節に、こんなことが書いてあるからです。
「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである」(口語訳)
これはキリスト教の教理体系を構築した、パウロという人の言葉です。
そのパウロが、「自分はまだ途中だ」「今も一生懸命追い求めている」と言っているのですね。
でもそう言うのは、パウロの知識が不十分だったからではありません。実際には十分だったと思いますよ。ただ彼は、それでも「追い求める者」でありたかったのでしょう。「到達した」と思って立ち止まるのでなく、「まだ何かあるかも」と探し求めたかったのでしょう。
だから「真理を知っている」などと、パウロは言わなかったのだと思います。
であるなら、現代に生きる私たちも同じではないでしょうか。どれだけ勉強し、研究しても、「これで十分」と思ったらそこまでです。「まだまだ知るべきことがある」と思った人が、その先へ進んで行きます。
だから「真理を知っている」などと豪語して憚らない「自称本物」の皆さんは、少なくともパウロの言葉を正しく理解していません。
知らないことに気づいていない人たちの方が、「かわいそう」だと私は思うのですけどね。
私たち宗教を奉ずる人間は、できるだけ視野を広く持つべきです。いろいろな角度から自分の宗教を見つめ直し、検証すべきです。そしてできるだけ物事を決めつけないで、可能性という余地を残しておくべきです。
でないと狭い部分しか見ないで、「これぞ真理だ」と早まった結論を出してしまって、あとで間違いに気づくことになるかもしれません。
と、ここまで書いて、ふと気付いたことがあります。
「自称本物」が言った「真理」とは、もしかして Truth でなく、 Mari という名前の女性だったのでは?
「わたしはマリを知っている。知らない人たちはかわいそう」
あ、やっぱりちょっと何言ってるかわからないですね(←サンドウィッチマンふうに読んで下さい)。
独りよがり、偏狭的にならないよう、謙虚な心構えを持っておくのが大切ですね。
返信削除「私はマリを知っている。知らない人はかわいそう」って、マリさんと付き合い始めたばかりの人のノロケかよ!と、突っ込みを入れながら読ませていただきました。
サンドイッチマン、めっちゃ好きです。
冨澤たけしのお決まりのフレーズ、
「ちょっと何言ってんのか分からない」は、日常生活を送るうえで重宝します(笑)。
ありがとうございます。
削除謙虚さは本当に大切だと思いますね。
もしおかしなクリスチャンに遭遇してしまったら、ぜひサンドウィッチマンのフレーズで返してみて下さい(笑)。
Mac Winです。
返信削除> 問題は、自分と違う人たちにダメ出しする、自称「本当のクリスチャン」。
仰る通りと思います。そして、これは本当に注意深く自戒が必要ですね。私は数十年過ごした福音派で残念な経験をしてエキュメニカルに転会した者で、一部の福音派、聖霊派の問題は由々しきものだと考えています。しかし、逆に自分が正しいとして福音派、聖霊派をダメ出ししないように自戒したいと感じました。
Mac Winさん
削除ありがとうございます。
たしかに、一部の福音派や聖霊派は、非常に大きな問題を抱えていると思います。ですが一方で、それを批判する私もまた、同じような失敗に陥る危険性があると思います。自戒が必要ですね。
そのあたりのバランスを保ちながら、おかしいことはおかしいと言えるようでありたいと願っています。
Mac Winです。お返事ありがとうございました。
削除誤解のないようにお返事いたします。
私はfuminaruさんブログは貴重な働きと感じています。自分の教会がおかしいという気づきになるから疑念を抱いた方が助かる可能性があると思います。
おかしいことはおかしいと言える事は大切だと思います。
たまに見かける、アンチのようコメントがいささか辛いなぁと思う次第です。
ありがとうございます。
削除アンチっぽいコメントがあるのは仕方ないと思っています。こういう内容のブログですから、反発も覚悟の上ですね(笑)。
でもいろいろ調べたり学んだりすればするほど、自分の無知さに気づかされます。日々勉強ですね。
私の行っていた教会は「大宣教命令」というのを重要視していました。
返信削除イエス様を知らない遠くの国々、あるいは近所の人々…とにかく伝道が大事ですと。
まあ、それだけならいいんだけど、「ノンクリスチャンはかわいそう」って意識は必ずセットだよね。
礼拝中の祈祷で「世の滅び行く魂が一人でもこの日曜礼拝に導かれて救われるように」という言葉が使われたり。
だから、聖書翻訳の事業は良いことだと思うけど、「はあー、この人ら我々が翻訳しなければ地獄行きだったんだよな~」とか考えてるんじゃないか、なんてちょっと疑ってしまう。。
「ノンクリはかわいそう」とか「滅びゆく魂」とか、教会では普通に言われていますが、よく考えてみると非常に差別的な表現ですよね。自分たちだけは「救われている」とでも思っているのでしょうか。その上目線を直すのが、大宣教命令も何もないと私は思います。
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