こちらのツィートを興味深く読みました。
https://twitter.com/37_2_le_matin/status/1021364787773464576
故・又吉イエスさんの選挙ボランティアをやっていた瑠璃子さんの告白です。
又吉イエスさんと言えば、「唯一神又吉イエス主義」なるものを掲げて、衆議院選挙などに何度も立候補していた人です。ご存知の方も多いと思います。
私は聖霊派教会で頑張っていた頃、彼の選挙ポスターを見るたび、「こんな異端信仰の人間が当選するはずがない」みたいなことを思っていました。実際の彼を見たことはありませんが、ポスターから受ける印象を10段階で評価したら、マイナス100くらいでしたね。とにかく忌み嫌っていました。
しかし上記の瑠璃子さんは、私とは違う印象を持っていたようです。
上記の連投を要約すると、こんな感じです。
レイシスト男やDV男に苦しめられていたけれど、又吉イエスさんの選挙ボランティア活動をすることで、世界が広いことに気付いた。自分の生き方は自分で決めていいんだと知った。又吉イエスさんとの出会いは、自分にとってコペルニクス的転回をもたらした。
つまり私が嫌悪していた又吉イエスさんによっても、救われた人がいた、ということです。
この「救い」とは、いわゆるキリスト教的「救い」とは違いますけれど。
しかしそれもまた事実だろうと思いました。
私の教会も、振り返ればいろいろ問題がありましたけれど、一方でDV被害者を一時保護したり、不登校児をケアしたりもしました。そういう人たちからすれば、教会の方針ややり方が何であれ、「助けられた」のは間違いなかったでしょう。
傍目におかしな組織でも、そこで救われる人もいる、ということです。
もちろん、それ以上に多くの被害者を出しているかもしれませんが。
これは功利主義vs博愛主義の構図かもしれません。
多くの被害者を出す組織なら、そこで救われるわずかな人を切り捨てでも潰すべきだ、というのが功利主義です。
わかりやすく具体例で書きますと、こうなります。
又吉イエスさんの活動は害悪でしかないから、潰してしまおう。その結果、上記の瑠璃子さんがDV被害から抜け出せなくなったとしても、それはより多くの救済のためだから仕方ない。諦めてもらおう。みたいな。
実は聖書は、このような状況について言及しています。
100頭の羊を飼ってい、1頭が迷子になってしまった。さて羊飼いはどうするべきか。諦めるべきか。でも神が羊飼いなら、99頭を置いて1頭を探しに行くよ。という話です(マタイの福音書18章)。
その1頭を探しているうちに99頭が狼の襲撃に遭ったらどうするんですか、というのがこの話のツッコミ所なのですが、もちろん答えはわかりません(笑)。
1頭か、99頭か。
さて、皆さんはどう考えるでしょうか。