クリスチャンと「奇跡体験」の微妙な関係

2020年3月19日木曜日

「体験至上主義」に関する問題

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 少し前にツイッターで「クリスチャンになって体験した不思議な出来事をみんなであげよう」みたいなタグが出て、何人か答えていた。要は「奇跡体験」をシェアしようということ。わたしはモヤモヤしつつ少し眺めていた。

 奇跡ね……。

 奇跡(と思われる)体験についてみんなで話し合うのは、きっと楽しいと思う。ワクワクしたり、驚いたり、神に感謝したり。

 でもわたしが気になるのは、「こんなことが起こった」という話より、「何も起こらなかった」という話。不幸な状況にある人が何の救いも得られず、突き落とされていく姿の方が気になる。なぜ必要なところに限って、奇跡は起こらないのだろう。

 かつてわたしの叔母がガンになり、手術を受けることになった。叔母はクリスチャンではない。わたしたちは教会で叔母の「癒し」のために祈った。

 後日、手術前日の検査でガンが認められず、結局手術せずに済んだ、という驚きの知らせが母から届いた。
 わたしたちは歓喜した。祈りが聞かれ、「癒し」が行われたのだ!

 わたしは叔母の無事を安堵した。けれど同時に不思議だった。もともと奇跡の類いに懐疑的だったからだ。それになぜクリスチャンでない叔母に「癒し」が起こったのだろう。わたしの花粉症は何年たっても全然癒されないのに?

 キリスト教的な奇跡体験とか超常体験とか、扱いが難しいと思う。
 こんなすごいことが起こった、という奇跡談は次なる奇跡談、もっとすごい奇跡談を求めるようになり、結果的に、
「すごい奇跡が起こらないと信仰的じゃない」
「奇跡が起こらないのは不信仰だからだ」
 みたいな価値観になってしまうから。

 そういう話が多い教会では(何故か教団教派によって差が激しい)、どうしても奇跡が起こってほしいと切実に願う人が、真剣に奇跡を求めるようになり、助言されるままに長時間祈ったり、多額の献金をしたりと、無茶するようになってしまう。それで何も起こらないと、「祈りが足りない」等で追い詰められる。

 スマトラ沖地震のとき、津波に襲われて絶対絶命の状況だったのに超自然的に助けられた、という人の話を聞いたことがあるけれど、じゃあ助けられなかった人たちは(クリスチャンであっても)不信仰だったから? 特定の教派の教職だけは特別扱いなの? という疑問を抱いた。

 奇跡の類の話はちらほら聞くけれど、そういうわけで、どう扱ったらいいかよくわからない。

 さて、前述の叔母の「癒し」には種明かしがある。
 実は叔母のガンは消えてなどおらず、予定通り手術を受けた。そして転移等が認められず、無事退院した。

 母がわたしたちに気を遣って、嘘をついたのだ。「不思議だけど手術せずに済んだよ。お祈りありがとう」と。

 わたしは何年も後にその事実を聞かされ、驚いたけれど、納得もした。「祈っています」と言いつつお見舞いに一度も行かなかったから、現場で何が起こっているか知りようがなかったのだ。

 そのような「勘違い奇跡」もけっこうある。
 会堂で祈っていたら肉声が聞こえてきた! 神様が語りかけてくださったんだ! と思ったら奥の誰もいないと思っていた部屋に人がいて、喋っているだけだった、みたいな話とか。

 いずれにせよ、奇跡体験はあんまり吹聴しない方がいいとわたしは思う。

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