霊的体験……?

2019年12月17日火曜日

「体験至上主義」に関する問題

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 福音派や聖霊派あたりは日常的に、

「これは神様の祝福です」とか
「それは聖霊様の働きです」とか
「あれは悪魔の策略です」とか

軽々しく言うけれど、その軽々しさが神様も聖霊も悪魔も下に見てる証拠だと思う。「神様や聖霊や悪魔のやることが把握できてるわたし」ってことだから。え、あなたそんな全能者なの?

「神の御心を求める」というのも同じで、何が御心で何が御心でないか、結局のところ自分で決めてるだけ。つまり正真正銘の「御心」とは言えない。

「道が閉ざされた」とか「道が開かれた」とかとも言うけれど、それだって恣意的。たとえば「医者になるよう導かれていると思う」という人が医学部を受験して不合格だったら、「道が閉ざされた。やはり御心でなかった」などと言うでしょ。いやいや、もう1年浪人する道だってあるよ? なんで「閉ざされた」って勝手に決めつけちゃうの? なんでそれだけで諦めちゃうの? その判断はどこから来たの? 結局自分じゃないの? という話。

祈ってたら雲がイエス様の笑顔みたいな形になって、イエス様がわたしを喜んで下さってるんだってわかりました!

ってハイテンションに「証」する人がいたけど、シミュラクラ現象について調べてみた方がいいと思う(知らない人はググって下さい)。

 あと「霊的体験」を強調したい人たちは、先に心理学をちゃんと学んでおくべきだと思う。

 たとえば歌ってたら感動に震えて涙が止まらなくなったとか、笑いが止まらなくなったとか、立っていられなくなったとか、何か見えた(聞こえた)気がしたとか、そういうのは一般のライブでも、どこででも起こり得ることだから。

 教会内で起こったことを何でもかんでも「霊的体験」とするのは間違い。人間の心理は一見して不思議なことを時と場合によって起こすし、それはキリスト教とか「霊的」とかとは関係ない。ただあなたがそれを「霊的体験」だと思いたいってだけ。

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