「神の家族」にもルールや取決めは必要だという話

2013年12月13日金曜日

キリスト教信仰

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 クリスチャンが神様に(あるいは教会に)捧げるものとして、献金とか時間とか労働とかの他に「献品」というのがある。いわゆる物を捧げることで、その昔は牛とか鳥とか穀物とかだったろうけれど、現在は例えば楽器とか電化製品とか家具とか、そういう(教会にとって)実用的なものが多いと思う。
 信徒が不要品を献品することもあるだろうし、教会からの献品依頼に応えて捧げることもあるだろう。いずれにせよ、基本的に「善意」によって捧げられるのだと思う。

 しかし中には、純粋な善意でもなさそうなケースがある。教会で主に自分が使うものを「献品します」という場合だ。
 例えばギタリストが、普段礼拝で自分が使うギターを献品するということがある(実際にそういうケースがあった訳でなく、あくまで例としてだ)。そのギターの所有権は当然教会に移るのだけれど、普段それを主に使うのはその献品者本人で、日常的なメンテナンスなどもだいたい当人に任せられる。だから本人の「献品します」という宣言はあるにせよ、事実上その人が所有しているように見える。
 そういう心理を利用してかどうかわからないけれど、長い年月の後、例えばその人が転会することになった時、当然のようにそのギターを持って出ていくということがある。「返して下さい」と言ったりもする。当然ながら教会側はそれを拒否することもできる。けれど、まずそれはないと思う。私は見たことがない。

 当初は本当に献品するつもりだったのが、後になって惜しくなったのかもしれない。何にせよ一度捧げると決めたものは潔く捧げきってしまうべきだと思うけれど、まあ気持ちはわからないではない。しかしそれを見ている方としては、何となくスッキリしないものがある。例えばこれが献金なら、そんなことにはならないだろう。
 それでも「返して下さい」と言うならまだ誠意を感じる。中には、黙って持って行ってしまうということもある。

 もっとも、献品に際して正式な書面を取り交わすということもないだろうから、所有権云々を言い出しても始まらないだろうと思う。あくまで、気持ちの問題になるだろう。

 書面と言えば、教会では取り交わすことが少ないかもしれない。もちろん教団教派によって状況は違うだろうけれど、口約束とか、信頼とか、そういう見えないもので済ます傾向があるように思う。前述の献品もそうだし、他にもスタッフに対する雇用契約とか、役員の権限に関する決め事の書類とか、いざという時に法的根拠となるものが揃っていない教会というのはあると思う。それが悪いという訳ではなく、もちろん安価な献品なら書類などなくても問題にならないだろう。けれどある程度大きいお金に関して正式な書類がないと、後々大きな問題となることがある。

「神の家族なんだから書類などなくても大丈夫だ」というのは、理想論としては良いかもしれないけれど、あまり現実的ではない。同じ教会員であっても最終的には赤の他人だと(自分の中で)しっかり線引きしておくことは、多少冷たいような気もするけれど、結果的に両者を守ることになる。これは私が経験から学んだことである。上記の「献品引き揚げ」のようなケースを知っている方には、ご想像いただけるだろうと思う。
 

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