神学校に「籠って」勉強すべきか、奉仕しながら「片手間に」勉強すべきか。

2013年12月15日日曜日

キリスト教信仰

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 牧師や宣教師になろうという人は普通、神学校に行くのだと思う。いろいろな教派の学校があるだろうから一概には言えないだろうけれど、聖書教理やその実践について系統的に、しっかり学ぶのは大変重要なことだと思う。そういう学問的裏付けは、牧師らにとって「拠り所」みたいなものではないだろうか。

 しかしある牧師に言わせると、そういう神学校は「頭でっかちな使えない牧師を量産するだけ」らしい。その牧師には実践が何より重要らしく、「実践神学」というのを提唱していた。
 

 実践神学というのは、例えば牧会学とか宣教学とかカウンセリングとか、牧師らが教会運営を始めると即必要になる方法論的な学問のことである。けれどその牧師が言う「実践神学」は、それとはちょっと違う。方法論的なことと言うより、「教会で何らかの(片手間でない)奉仕をしながら聖書を学ぶ」というようなことだった。だから学習内容が実践分野なのでなく、要は、働きながら学ぶということであろう。

 その牧師に言わせると、3年か4年神学校に籠って勉強しかしていないと、人のことがわからなくなってしまって、結局牧師として使えない人間になってしまうらしい。そうでなく勉強しながら同時に奉仕をバリバリすることで、学んだことを即実践できるし、実践して失敗したことを学び直せるし、という相乗効果が生まれる、だから実践神学の方が優れているんだ、というような主張であった。

 それはそれで一理ありそうだけれど、大きな問題点もある。働きながらの勉強だと、学習内容がどうしても薄くなるという点だ。最低限の基礎は学べるだろうけれど、それ以上発展していく余裕はないだろう。
 実際、その牧師が言うところの「実践神学」を修了して得られるのは準学士であって、学士ではない。これは(単純な比較はできないだろうけれど)専門学校卒と大学卒くらいの違いであろう。だからやはり、働いている分、学習量が少ないということになるのだと思う。

 その牧師がもう一つ支持するのが、「学歴など必要ない」という主張だ。「ペテロたち12弟子も無学な漁師たちで、主はそういう者たちを大いに用いたではないか」という。しかし、高学歴だったパウロの話が引用されないのは何故だろうか。

 
 私も学歴が最重要だとは思わない。けれど、チャンスがあるなら勉強した方がいいし、可能なら学歴を持った方がいいとも思っている。もちろん、人間の価値は学歴で決まる訳ではない。けれど一定量の学習をやり遂げたという実績は、その人に何らかのインセンティブを与えるだろう。そしてそれは、人の価値を下げることにはならない。

 常々思うのだけれど、「学歴など必要ない」というのは高学歴な人間が言うから真実味を帯びるのであって、その為に苦労したことのない人が言ってもイタイだけだ。いったい何がわかって「必要ない」と言えるのだろうか。

 神学校に「籠って」勉強するのが良いのか、あるいは教会で忙しく働きながら勉強するのが良いのかは議論の余地があるかもしれない。私にはどちらが良いのかよくわからない。けれど、信徒を虐待して自己実現にひた走る牧師であるなら、どちらの出身であろうと私は遠慮したいと思う。

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