説教中の眠気の対処法
礼拝の説教中、眠くなることってありませんか?
私は若い頃よくありましたね。説教に集中しているつもりが、いつのまにか舟を漕いでいたり、メモの字がミミズになっていたり、落ちる夢をみて足がビクッとなってしまったり。ちょっと自己弁護すると、毎回ではありませんでしたが。
まわりを見ると、眠ったことがないんじゃないかと思うくらい最後まで目がパッチリしている人もいれば、わりと堂々と寝ている人もいました。牧師によっては初めから「眠い人はどうぞ寝て下さい」と宣言する人もいました(それくらい寛容なのでなく、誰が寝ていたかしっかり覚えているタイプです笑)。礼拝後に「あー眠かった」と自己申告する信徒もいましたね。
というように人によっていろいろだと思うのですが、説教中に密かに眠気に対処することって、案外多いんじゃないでしょうか。そういう時、皆さんはどうやって対処しているでしょう。
オーソドックスなところで言えば、目薬を差すとか、眠気覚ましのツボを押すとか、飲んでいいならコーヒーを飲むとか、ちょっと席を立つ(トイレなど)とか、足首をグリグリ回すとかですか。
試したことはありませんが、息を止めるのも効果的だそうです。呼吸を止めると代償的に脳の血流が増え、覚醒を促すとか。深刻に悩んでいる人はやってみて下さい(効果は保証しません笑)。
知り合いに、説教の手話通訳をしている人がいます。なぜその奉仕を始めたかというと、「座っていると眠くなるから」だそうです。本当かどうかは知りませんが。
眠気の有無は信仰のレベル?
おそらく明言されないでしょうが、説教中に眠ってしまう人は「信仰熱心でない」と捉えられると思います。逆に寝ない人は「信仰熱心」と思われます。忙しくアーメンと相槌を打ったり、最後まで飽きずにメモを取ったりしている人は、いかにも熱心そうですよね(実際熱心だと思いますが)。
つまり、眠気の有無で信仰が計られる、ということです。
それはある意味で正しいかもしれません。なぜなら興味関心があれば、なかなか眠くならないからです。何かに没頭している時に眠くならないのと同じです。何か切実な事情があり、牧師の説教に強い関心があるならば、誰だって一言も聞き漏らすまいと頑張るでしょう。
でもそれは「関心」であって、「信仰」とはちょっと違います。
厳密なことを言えば、説教を聞く態度(あるいは聞かない態度)と信仰とは、関係ありません。「関心」の有無と「信仰」の有無は違うからです。
だから「説教中に眠くなってしまう」と自分を責めている人がいたら、そんな必要ないですよ、と私は言いたいですね。
そもそもの話として、眠くなる原因には日常的な睡眠不足があるかもしれません。
毎日ちゃんと眠っているでしょうか。睡眠不足は(特に若い人は)大したことないと思うかもしれまんが、なかなか馬鹿にできません。確実に蓄積していき、脳の機能などにダメージを与えます。だからできるだけ早く寝た方がいいです。土曜の夜だからと言って、夜更かししちゃいけません(笑)。
あるいは奉仕が忙しくて睡眠不足になっている人がいるかもしれません。はっきり言いますが、そういう奉仕は辞めてしまいましょう。身体を壊してまですることではありませんから。
もう一つは、牧師の説教が長すぎないでしょうか。
マイクを持つとヒートアップして話し続ける牧師がたまにいますけれど、あれは良くないと思いますね。人間の集中力はせいぜい15分から20分くらいなのに、平気で40分も50分も話してしまいます。聴衆に配慮していると言えません。単に自分が話したいだけ、聞いてほしいだけじゃないでしょうか。
もちろん著名人の講演会なんかは長いんですけれど、あれはエンターテイメントの一種と考えるべきです。有料のことも多いですから、参加者の意気込みも違いますし。
それにぶっちゃけた話、聞いていて眠くなる話なら、聞かなくていいんじゃないでしょうか。
あ、これはちょっと言い過ぎですか(笑)。
眠たくなったらどうするのかと言えば、僕は寝ていますね。眠くなるような話をする方が問題なのですよ。しょうもない話をするから眠たくなるのです。
返信削除神父さんや牧師さんは、一応プロなのですから、眠たくなるような話をすべきではないですね。
聞き手の問題にしてはいけないのです。
昔昔、「明石家さんま」のある番組で、急に聞き手が足りなくなって、アシスタントデレクターが通行人をかきあつめたのだが、「さんま」は誰という観客ばかりだったので、全然番組が盛り上がらなかったということがあったけど、「さんま」ほどの芸能人でも、さほど聞きたくないのに集められた聴衆相手には苦戦するというわけですねえ。
まあ、それに比べたら聴衆が信者、信徒なのですから、本来は楽勝のはずですが、楽勝にならなくて、信者、信徒が寝ていると言うことは、よほど神父、牧師に能力がないと言うことでしょう。
はっきり言って下さってありがとうございます。
削除たしかにおっしゃる通り、眠たくなる話しかできないなら、司牧としての資質に問題があるのかもしれません。
彼らからしたら「寝る方が悪い」って話なのでしょうけれど、だったらそれはそれで何か改善しようとか、工夫しようとか、そういう発想があってもいいと思うんですけどね。
牧師の話を聴いているうちに眠気が生じたら、私は憚らず寝るか、聖書を読んで時間を費やしていました。
返信削除本当に時々ですが、礼拝途中に帰ることもありました。聴いてられないような話(教会員の個人的な生い立ちを、その方の許可なくペラペラ話し始めたり、ある教会員の個人攻撃など)が始まった時などです。聴くことそのものが不快なので。
日曜日に、そんなことを聞きに行ってる訳ではなくて、聖書に書かれているイエスキリストの教えを、どう、現代の日常生活に適用するのかなどが聞きたいです。
牧師が、キリスト教業界のみ内輪受けする話に終始するのなら、わざわざ聞きに行く意味は無いと私は思います。
私の教会では、居眠りする人は「残念なクリスチャン」とされていました。霊的でなく、この世的だと。だから説教中に眠るのは悪いことだ、みたいな刷り込みが、自分の中にもあったと思います。
削除でも「眠い時は憚らず寝る」というコメントを拝見して、そうでもないんだなと気づかされました。聞く価値のない話は聞かない、という主体性も大切ですよね。ありがとうございました。
人間の集中力が15分から20分ですから、それ以上は土台無理です。
返信削除(若い頃は夜遊びで、日曜日は午前中は死んだも同然でした。それがここ数年前の事ですが、明るくなってから帰宅し、さあ礼拝。賛美リードをさせて頂き「いやいや昨日飲み過ぎて❗」と堂々と発言して物議を醸しました��)
それに加えて話し方、内容、口調、声等も影響してきます。
所謂福音派系統の教会に長く在籍した者としては、それらの教会の牧師は殆んど説教が長い。長過ぎる。おい、先生❗いつ終わるの?と聞き返したい程に長い。まだ言ったことないですが。
ハッキリ言って地獄です(笑)
特に講解説教と言う演題の場合に。
題目説教の場合だと少しは加減出来る⁉
何れにせよ、2泊3日等の信徒研修会ではないのですから、礼拝説教で一時間掛けるのはやめにしてもらいたい❗と思う所です(笑)
最もかなり前の、某バ❌テ��ト連盟の時には、信徒研修会で酒盛りと夜更かし。しかも年輩の方とご一緒で。
翌朝頭痛と吐き気を抑えて讃美歌24番「父の神よ、夜は去りて~」と、臨んだのは言うまでもありません��(笑)
すいません。不良なクリスチャンです。
教会なのに「地獄」なのがたまりませんね。
削除礼拝中、寝たりスマホを操作する人を注意していた教職者。ある日ふと見てみると、スマホをいじっていました。別の日はがっつり寝てました。どの口がそんなこと言えるのか不思議でしょうがないですね。それでもって恵まれたとか言ってるんですから。
返信削除人に指導するには、まず自分が実践者でなければならない、という指導の基本をその教職者はご存知ないようですね。
削除教会にはもとより御言葉を聴きに来られていない方々が礼拝におられるケースもあると思われます。だから説教中に眠られるのも不思議はありません。 来られている理由は皆さん違うようにお見受けしておりますが、、教会が提供するプラスアルファーが来られている主な目的の場合ですとそのプラスアルファーの提供がなくなった時が来るのを止めるきっかけになられるご様子、、品切れにならないように努力され続ける教会の方も苦しいのではと感じますがこれならもう教会ではないとも感じます。
返信削除牧師によっては、信徒を笑って泣かせる「エンタメ説教」に命を懸けている(?)人もいますね。聖書なんかほとんど開かないで、とにかくドラマチックな、感動的なものを目指す人です。ある意味でストイックなんですけれど、うーんこれが教会なの? という疑問が拭えません。
削除私たち羊はそれを求めて教会(礼拝)に行っていません。聖書が言っていることや御言葉の解釈、奥義、と聖書を教えてほしいのです。牧師の感情や「あー思う、こー思う」お涙ちょうだいもいりません。以前そーいう教会にいましたが、時間の無駄でした。あー思うこー思うのは自由だけど、怠けず聖書をもっと勉強しれよ。私たちも世で一生懸命働いているように牧師ももっと一生懸命聖書を研究してほしいもんだ。「あー思う、こー思う」なら私にだってできる。泣かれた日には彼のショーを見せられてもうおなかいっぱい。。
削除牧師の個人的な感情の話になってしまうと、聞いていてウンザリしますよね。
削除この前ためしに入ってみた教会でも、説教中に「先週の週報に誤字があって云々」みたいな話を延々としていて、閉口してしまいましたね。
Mac winです。私が数年前に半生を過ごした福音派を出たのはこれでした。最後に感動的な例話で説教が終わるのですが聖書箇所と特に関係がなかった。やはり牧師は「厳しい」神学校で深い学びをして頂くことが肝要かと感じております。
返信削除そういう感動に夢中になっている信徒には「恵まれる説教」なのでしょうけれど、その陳腐さに気づいてしまうと、もう馬鹿らしくて聞けないですよね。
削除説教中に眠くなったら。うーん。他人事ではありません。
返信削除というのも、実はスマイルもそれで悩まされているからです。別に牧師に怒られたことはありませんが、補聴器を通して聞いていると、次第に耳鳴りがあったり、補聴器で音声を聞くのが難しい聴力でもあるため、聞こえない聞き取れない、そこから眠気がくることもあるのです。さらに心臓弁膜症と言われてから、疲れやすくなったこともあり、なかなか説教をきちんと最後まで聞くのがきついですね。
ここのみなさんは聴覚障がいがある方はいらっしゃらないと思います。しかし現実に教会にも障がいがある人が来るわけです。
聖霊派教会あたりは手話通訳がいるところもあるようですが、それ以外のリベラルなところ、乱暴な言い方をするなら伝統的な教会は手話通訳士がいないところが多いのです。だいぶ意識が変わってきたときかれるようになりましたが、説教をプリントでいただける牧師も増えてきました。昔は説教をプリントでいただきたい読みたいと言ったら「説教は一回こっきりだ」と言われて断られたのです。
というわけで、眠気が来るような説教うんぬん以前に、情報歩調としての説教を考える教会が増えて欲しいなあと思うのは、聴覚障がい者だからでしょうか?
聴覚障がい者の方がいるとわかっているなら、何らかの配慮をするのが当然だと思います。でないと30分も40分も座っているだけになってしまいますから、眠くなっても仕方ないと思いますね。
削除説教の内容もさることながら、そういうことに配慮できるのも司牧の資質として重要だと私は考えています。
「メッセージ中寝るのは言語道断。牧師は神の代弁者ですから。」と話す牧師と称する者は祈祷会時にこう恫喝した。でも自分の自慢話ばかり話す。批判する話すのならストレスですが、漫才や落語きいて笑っていた方がスッキリします。
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