試験に落ちたり面接に不合格だったりした時に「神様がこの道を閉ざされた」「神様がこの道ではないと教えてくれた」と解釈するクリスチャンがいる。教会でそういう解釈を教えられるから仕方ない面はある。けれどご都合主義だし、発想が幼い。
特に学力を測る試験は、合否判定の形式にもよるけれど、それまでの勉強量や暗記量、得意不得意といった要素に大きく左右される。「不合格だから神様のみこころでなかった」とするのはそういう責任の放棄に見えるし、神を都合よく利用しているようにも見える。「みこころでなかったと思いたい」のが正確なところではないのか。
「努力したけれど自分の希望通りにならなかった。それは神様のみこころでなかったからだ」
この考え方は自分を納得させるのに役立つだろう。願いが叶わなかったショックを和らげてくれるかもしれない。しかしこの発想の前提にあるのは、「私は神様のみこころを正確に知ることができる」という傲慢さだ。他人の気持ちも正確に理解できないのに、何故目に見えない神様の心の中が見えるというのか。
この考え方のもう一つの、もっと深刻な問題は、なんであれ結果を受け入れてしまう点だ。
私の牧師は、信徒の面前で「牧師夫人」である妻をなじることが多かった。酷い言葉を平気で使い、怒鳴りつけることもあった。見かねた私は副牧師に相談してみたが、「夫婦のことに口を出してはいけません」「神様が導かれることです」の一点張り。確かに夫婦の間でしか分からないこともあるだろう。けれど皆の面前で暴言を吐く夫と、泣き出す妻を放っておいて良いものか。
しかし当時の私は「神様がされていることなら仕方ない」と納得してしまった。「神様が定められた秩序がある」とか「神様が私たちを完全に導いて下さっている」とか本気で信じていたのだ。下手に口を出したら神様に逆らうことになってしまう、と恐怖した。
目の前で虐げられている人を放置することこそ問題だと今は分かる。「定め」とか「導き」とかいう言葉で悪い行いを正当化してはいけない。それは神の前に罪を犯すだけでなく、犯罪行為を黙認する点で日本の刑法にも触れるだろう。私は(結果的に無理でも)止めなければならなかった。
その後悔があるからか、冒頭の「神様がこの道を閉ざされた」という類の身勝手な解釈に怒りを覚える。あの「牧師夫人」があのまま死んでしまったら、「召されるのがみこころだったのだ」とか言うのだろうか。
いや、私たちは暴力を見たら止めなければならないし、虐げられている人がいたら守らなければならない。「神様」とか「計画」とか関係ない。それができなくなるくらいなら、クリスチャンなんてやめた方がましだ。
冒頭の話に戻ると、大事な試験に落ちたら悲しんでもいいし、希望の仕事が得られなかったら悔しがってもいい。「これがしたい」と思うことが上手く進まなかったら「神様が道を閉ざされた」なんて思わないで、何度チャレンジしたっていい。本当に「したい」と願うならそうすべきだ。「神様が閉ざされた」なんて、勝手に決めつけてはいけない。