カルト被害者が別のカルトへ
「カルト化教会で被害に遭った人が、また別のカルト化教会に行ってしまう」ということがあります。せっかくカルトを抜け出したのに、また同じようなカルトに掛かってしまう、という皮肉な話です(本人にとっては笑い話でなく、災難でしかありません)。
なぜそうなってしまうかと言うと、こういう考え方があるからです。
「問題は人(牧師)であって、教え自体は間違っていなかった」
つまり教会の教えややり方、組織や体制には問題なかった。問題はそれを悪用した牧師一人にある。という考え方です。だから問題牧師がいなくなれば良い、そういう牧師のいない教会に行けば良い、と考えるわけです。
これは、自分が信仰してきた教派(たとえばペンテコステ派、カリスマ派など)は間違っていない、と思いたいからです。長く信仰してきたことだから、間違いであってほしくない、と。
もちろん、どの教派も「間違い」ということはありません。たとえば福音派や聖霊派が全部「間違い」だと言うことはできません。実際、大きな問題を起こしていないその手の教会もあります。
ただ、福音派や聖霊派が問題を「起こしやすい」のもまた事実です。今までカルト化が認められた教会群はだいたい福音派か聖霊派ですから。逆に日本基督教団やルーテル派がカルト化したという話は(少なくとも私は)聞いたことがありません。
たとえばペンテコステ派の一部は「神に◯◯と語られました」みたいなことを日常的に言いますが、これは「神の言葉の捏造」に繋がりやすいです。自分が感じたことを「神がこう言っている」と思い込んでしまったり、あるいは自分の願望や欲求を「神の言葉」に置き換えてしまったりするからです(実際にそういうことは起こっています)。
「そんなことをするのは悪い人間だけだ」という意見もあるかもしれませんが、そういう悪いことが容易にできる土壌なのが、そもそも問題ではないでしょうか。
ですから問題を起こしやすい教派に居続ける限り、常にそういう危険性と隣り合わせなわけです。
「あの先生なら大丈夫だろう」
「この教会なら大丈夫だろう」
そう思っても、教会の内情は外から見てもわかりません。関わってみて初めてわかります。そしてわかった時はすでに遅い、なんてこともあります。
というわけで、カルト被害者が別のカルトに掛かってしまう、という状況が生まれます。
理解してもらえないという被害
さて別の二次被害として、カルト被害を訴えても理解してもらえない、というのがあります。
教会で牧師に酷い目に遭い、それを他教会の牧師に訴えたら逆に責められた、なんて話があります。被害者からしたら踏んだり蹴ったりなのですが。
「牧師も人間なんだから、罪を犯すことはある。信徒ならそれを理解して、許すべきだ」
一見もっともらしい言い分です。実際そういうことを言う牧師やクリスチャンがいます。どんな罪でも主にあって許すのがクリスチャンでしょう? みたいな。でも私の経験では、被害に遭ったことのない人間に限ってそういうことを言います。
先日私が投稿したツィートを引用しましょう。
牧師に個人的な相談をしたら、教会の皆に暴露されました。絶対に知られたくないことでしたから、大変憤っています。これでも許すべきですか? という知恵袋をたまたま見たんだけど、第一の回答が「許すべきです」で戦慄。第二の回答が「『許す』と『赦す』は違います」で唖然。これがクリスチャン?個人情報をバラす牧師ももちろん問題ですが、その被害者に対して許すべきとか、許しと赦しがどうとか、そういう心ない回答をするのもどうかと思いましたね。
こんな感じで、キリスト教界には、加害者のくせに「聖書は許せと言っている」などと言いだす輩とか、部外者のくせに「許し」ばかり強調する輩とかがいます。
被害者の心を、見ようとしないのですね。
被害者ビジネス
他に「被害者ビジネス」があります。
カルト被害者の救済活動を、あくまでビジネスとして展開する人たちです。被害者に寄り添うようでありながら、結局のところ被害者を選んだり、利用したりするのです。だから助けてもらえると思って近づくと、ガッカリすることがあります。
さて、ザッと見ただけでも、これだけの二次被害があるのですね。
残念ながらキリスト教界は、カルト被害者が安心して被害を訴えられない世界なのかもしれません。であるなら被害者の方で、ある程度自衛しないといけませんね・・・(4月29日のメルマガにて、更に詳しく書いています)。
赦しと罰ということが混同されがちですね。神の赦し、許し、人の許し、赦しですが、罰というのとセットになっているのを忘れがちですね。
返信削除罪と罰です。カトリック教会では告解、罪の赦し、昔風の言い方だと神への懺悔をすれば、神はその罪を赦してくれることになっています。そして、神の罰はちゃんと受けなさいということになっています。宗教改革の際に、問題になったのは免罪符ではなくて贖宥状なのです。最近の世界史の教科書では訂正がされていますが。
罪は懺悔をすれば誰でも神に赦されるわけで、免罪符などと言うものはそもそも必要がないわけです。
問題になったのは、罰の免除なのです。まあ、例えて言えば、本来懲役10年になるような罰だが、この贖宥状を買えば、ありがたや、懲役5年に罰が軽減されますよというわけですね。これをルターは、あかんと言ったわけですね。
例えば教会でセクハラ問題があったとしますと、被害者は加害者を許してあげるけど、罰はしっかり受けてもらいますよというわけですね。
赦しだけあって、罰から免れるというのは、宗教改革の理念に反するわけですね。
明快なご説明ありがとうございます。たしかに免罪符と贖宥状は混同されがちだと思います。
削除ちなみにメルマガの方では、罪と罰、すなわち許しと補償のついても書いています。
カルト教会を離れた後、別のいくつかの教会に出向き、牧師と話をする機会がありました。私の教会は強引な勧誘や献金の強制やセクハラ事件などで有名でしたので、牧師さんも知っっていました。二次被害的なことは特にありませんでしたし、逆にいろいろ話を聞いてくれたので有難かったと思います。でも、普通の信徒さんはそう言ったこと(教会の悪評)を全く知らなかったので、なぜ前の教会を抜けたのかといったことを説明するのがちょっと大変だったのかなと思います。
返信削除ちなみに私は別の教会に籍を作り通っていましたが、今は全く行っていません。別に教会側に不満があるわけではありませんが、元々信仰を持ちたくて持ったわけではなく、ある意味強制されて持ったので、そこまでして続ける意味が自分の中で見出せなくなったからだと思います。
理解のある牧師の方に話ができて、良かったと思います。
削除中には「一信徒の話は信用できない」というスタンスの牧師もいますから、そういうのに引っ掛かると二次被害に発展してしまいます。
もちろん、信仰は強制されるものではありませんから、教会に行く行かないは完全に個人の自由だと私は思っています。
社会の「組織」は何処にでも少なからず問題がありますね。人の集まりですから。会社でも団体でも。
返信削除しかし、此処だけの話として個人的に相談されたものを大勢の前で話すなど、言語道断です。人としてどうよ?謝れよ。いや、謝って済む事ではないでしょう?
それを被害者である人に向かって、許すだの赦さないだのと言う事自体が終わっています。
牧師だけの問題ではなく、ドグマと言うか教理や教義、聖書からどんな教えでも創り出せますから、それをその団体の独自の物として絶対化しているとか、或いはその団体のしきたりや伝統としているなど、無言の空気感がそこにあるのではないかと思います。
物を言えない雰囲気。こんな事を言ったら、此処から出て行かなくてはならないなど。
他の宗教と決定的に違うのは、そこの代表者として表向きは神の代理人?として経営している牧師が、問題が起きた時に、いとも簡単に自己弁護と責任回避(神がこう言われるから、こう言う風に導かれたからなど)に逃避する悪癖が蔓延しているのは、表向きかも知れないですが「教祖様」が天のお父様であり、現実のこの地上の人間ではないと言う事です。
実際カルト化と言い切る事が出来ないまでも、似たような経験をしました。
一般社会であれば、正々堂々喧嘩を売ってでも正そうか、と言う事でも、キリスト教の中なのでいや優しさが、とか、キリストの様に、とか、変に遠慮してしまう雰囲気に満ち溢れているのが教会かと。
世の中の組織の中で最低で、常識の欠片もなく、正常な判断など出来る訳も無いのが、キリスト教福音派やカリスマ派、ペンテコステ派、聖霊派等の「カルト化した」聖書信仰と宣う集団の特徴かも知れません。
「聖職」と言われながら、倫理観や常識や礼儀が欠如している牧師が時々います。神学校で何を学ぶのか詳しく知りませんが、基本的な人権意識や社会通念については最低限確認してほしいものです。でないと信徒が迷惑するのはもちろん、牧師自身も信用を失い、結果的にキリスト教自体が信用されなくなってしまうと思いますから。
削除キリスト教は封建主義、権威主義の権化のように見られがちです。実際、そういう側面はあります。
返信削除しかしながら、キリスト教を持ち上げるわけではありませんが、私たちが拠りどころとしている人権、民主主義、平等のような理念などは、キリスト教の文化のなかで養われてきました。
歴史の教科書では、キリスト教VS啓蒙主義と単純化されて教えられますが、啓蒙主義の思想家の著作の中でも聖書からの引用はとても多いのです。彼ら啓蒙主義者はイエスに従うことを拒んだのではありませんでした。ただ、神だの宗教だのを利用して民衆を支配しようとする教会の権威を拒絶したのでした。
福沢諭吉の有名な「天は人の上に人をつくらず」という言葉はアメリカ独立宣言からの引用でありました。
アメリカ独立宣言には以下のようにあります。
「我らは次のことが自明の真理であると見なす。すべての人間は平等につくられている。創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられていること。これらの権利を確保する為に、人は政府という機関をつくり、その正当な権力は被支配者の同意に基づいていなければならないこと。もし、どんな形であれ政府がこれらの目的を破壊するものとなった時には、それを改め、または廃止し、新たな政府を設立し、人民にとってその安全と幸福をもたらすのに最もふさわしいと思える仕方で、新しい政府を設けることは人民の権利である。」
この独立宣言はイギリスの哲学者ジョン・ロックの「市民政府論」を参考にして起草されました。ロックは、「天賦人権説」、つまり人権は神から与えられた普遍的で不動の権利であって、何者もこれを揺るがせにすることはできないことを、「キリスト教の論理」の枠内で説明しました。
また、民主主義についても、イギリスの改革派のプロテスタントは以下のように考えました。
「正しいのは、神だけであって、人間は全て間違っている。しかし、正しい神は聖霊によって全ての人に真理を啓示なさる。奴隷であろうが、教養がなかろうが、人種、性別、階級に関係なく、神は聖霊によって彼らに真理を語らせる。だから、何人も軽んじてはならず、全ての人の言葉に真剣に耳を傾けなければならない」と。
ルターの宗教改革は聖書を民主化しました。その流れのなかで、あらゆる人間の神格化を拒絶する改革がありました。誰も神が特別に働く人間などいないし、神学の専門的な訓練を受けているからといって、他の人より真理を語るわけではない。「神学の訓練を受けた聖職者が管理をしなければ異端に流れる」と言う牧師は、人間をバカにしているだけでなく、万民に働く神の聖霊を侮辱しているのです。
ところで、西洋のキリスト教がこうした流れをたどってきたのに、なぜ日本のキリスト教会は封建的で権威主義的なのでしょう?(もちろん、西洋のキリスト教が全く権威主義的でないということではありません。)
そのひとつは、やはり日本のプロテスタント(日本だけではなく、韓国も)は「プロテストなきプロテスタント」というところにあるでしょう。
言うまでもなく、プロテスタントは、ルターの時代の権威主義的なカトリックに対するプロテスト(抗議)からはじまりました。そのときから、権威からの解放、組織よりも個人、が重要な関心事でありました。
ところが、日本に入ってきたプロテスタントは、宗教改革の時代のプロテストするプロテスタントではなく、すでに体制が整えられ、安定した組織となったプロテストなきプロテスタントでありました。
結果、プロテスト(抗議)しなければならないカトリックのような宿敵を欠くプロテスタントは、それ自身が、その名に反して権威主義的で保守的な団体や組織となっていくのは必然でありました。
日本のプロテスタント、とりわけ福音派は、彼らのアイデンティティやカトリックに対する敵対心とは裏腹に、ルターが罵倒した権威主義的なカトリックとそっくりになっていきました。現代だけを見れば、宗教改革の理念に近いのはカトリックのほうで、福音派はルターが罵倒したカトリックに近いかもしれないのです。
日本では、こうしたプロテストなきプロテスタントにプロテスト(!?)して生じたのが、内村鑑三に由来する「無教会主義」でありました。とはいえ、内村からすれば、無教会主義は内村の発案ではなく、エレミヤやイザヤからイエスへと至る伝統なのでありますけれども。
無教会主義は、教会不要論ではなく、人が立てた建物や制度、組織、聖職が教会なのではなく、それらを越えて、神がイエスによって集めた人の集まり、イエスに従おうとする全ての人の関わりそのもののことを言うのです。
プロテストなきプロテスタントゆえ権威主義に陥った、という説明がとてもわかりやすかったです。ありがとうございます。
削除さらにそれにプロテストしたのが内村鑑三であり、無教会主義であった、という流れを考えれば、本当のプロテスタントは無教会主義の方かもしれないな、と私は思います。