「教会に行きたくない」と言う人に、「行かなかきゃいい」と答えるのも「祈ります」と言うのも「他の教会に行ってみたら」と言うのも大抵役に立たない。そういう問題ではないから。しかしそういった安易な答えで「相談に乗って助言してあげた」と思い込んで悦に浸るクリスチャンが少なくない。他人の気持ちを汲み取ったり想像したりする努力や誠意が、著しく欠けていると思う。そんな人たちに「神の救い」など語る資格があるのか疑問だ。
特に、悩んでいる人に「祈ります」と言うのは(クリスチャンのコミュニティでよく聞く言葉だが)良くないことが多い。相手にとって何の役にも立たないのに、「ありがとうございます」とお礼を言わせることになるから。余計なストレスを与えてしまう可能性が高い。
もちろん「祈り」を否定するわけではない。しかし切迫した問題で困っている人、例えば何日も食べていない人に必要なのは祈りでなく食糧だ。祈りの答えを何日も待つ余裕がない相手に「祈ります」とは何の冗談だろう。
そのように、相手のニーズをよく考えもしないで「祈ります」と言っていないだろうか。
誰かの相談に真剣に乗るなら、そんな安易な言葉で終わらせるのでなく、何があっても最後まで寄り添う覚悟が必要だ。たとえ相手が聞かなくても、反発しても怒っても、諦めないで同じ姿勢を貫かなければならない。傷つけられることもあるかもしれない。もちろん傷つけられるのは嫌だけれど、困難な悩みであればあるほど、それは避け難いことが多い。
だから気軽に相談に乗ってはいけない。SNSなどのネット上なら尚更だ。安易に言葉を掛けたら多くの場合、無責任な結果に終わる。あなたは素晴らしい助言をして気持ち良くなりたいのかもしれない。しかしそんなくだらない承認欲求を満たすために、悩める人を利用してはいけない。
様々な状況があるから一概に言えないけれど、クリスチャンの祈りは、結果的に何らかの行動に繋がるものだと私は信じている。例えばそれは誰かの病室を見舞うことかもしれないし、食べ物を持って行くことかもしれない。自分の服を汚して、泥の中に横たわる人を抱え起こすことかもしれない。
それぞれの状況に応じて、相手との関係性に応じて、「祈ります」という言葉は、何らかの具体的な形に受肉するのではないか。キリストもそのようにして受肉したのではなかったか。そうした受肉を見ない言葉だけの「祈ります」に、いったい何の意味があるのか。