キリスト教信仰って、「永遠の文化祭」なんですか?

2018年4月17日火曜日

教会生活あれこれ

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 私の知っている教会は、「特別な集会」がやたら好きでした。

 毎週日曜日に礼拝するのですが、時々「◯◯特別集会」とか、「◯◯セレブレーション」とか、「◯◯ビッグデイ」とか名前を付けて、ちょっと豪華な礼拝(?)にするのですね。

 具体的にはゲスト牧師を呼んだり、「特別賛美」をしたり、ダンスやスキットなどのパフォーマンスをしたり、何かの映像を流したり、どこかの会場を借りたいと、いわゆる「お祭り騒ぎ」みたいな1日にするわけです。

 そういうのが月に1回程度ありましたから、信徒はいつも何らかの準備をしているような感じです。買い出しに行ったり小道具を作ったり。数日前になると、みんな集まってワイワイやりながら会場のセッティングをします。

 そういうのが好きな人には楽しい日々かもしれません。毎日忙しくて、充実していて、余計なことをあれこれ考える暇がありませんから、精神衛生的には良いのかもしれません。

 でもそれをもって「キリスト教は活動的でエキサイティングなもの」と考えるのはちょっと違うかなと思います。べつに活動的なのはいいんですよ。でも活動的でないとダメ、というのは違うかなと。

 最近メールをいただいたんですが、教会のそういう状況を「永遠の文化祭」と表現されていて、すごく的を射ているなあと思いました。

 私自身は学校の文化祭で盛り上がらないタイプの人間ですが、その雰囲気はわかります。好きな人は好きですよね。学校の一番の思い出が文化祭だ、と言う人も少なくないと思います。

 教会の「特別集会」の準備風景を思い出してみますと、たしかに「文化祭」的です。みんなで手作りして、夜遅くまで残って、夜食を用意して、そんなこんなで結束が強まって・・・、ものすごく貴重な時間を共有している感覚になります。

 でも繰り返しますが、それをそのまま「キリスト教」だと考えるのは違うと思います。
 むしろそういう活動自体は、キリスト教とはあんまり関係ないでしょう。特別賛美やらワーシップダンスやらですごく「霊的」な、「信仰的」なことをしている感覚になるんですけれど、そういうのがなくたって礼拝や礼拝ですし、キリスト教はキリスト教ですから。

 単に教会が(あるいは牧師が)特別な催しが好きだ、というだけの話ではないでしょうか。

 そういう「特別な集会」では、牧師はこんなことを言います。
「この集会で打ち破りが起こる」
「大いなるブレイクスルーが起こる」
「霊的な領域でとんでもないことが起こる」
「いまだかつてない主の祝福が注がれるようになる」

 なんだかすごいことが起こりそうですね!
 でもそういう集会を何度やっても、どれだけ準備しても、どれだけみんなで盛り上がっても、同じようなことが延々と繰り返されるだけです。いったい何が起こったのでしょう? 「霊的な領域」のことは知りませんけれど、何も起こっていません。それに「霊的な領域」でどんなビッグバンが起ころうが、現実世界に影響しなければ結果はゼロです。

 信徒の方は、本当に「すごいことが起こる」と延々と期待し続けているのでしょうか。
 それとも「永遠の文化祭」を楽しんでいるのでしょうか。
 あるいはその両者が入り混じっているのかもしれません。

 いずれにせよ忙しいこと、活動的なこと、盛り上がっていることがキリスト教信仰なのでなく、「霊的」なのでもありません。活動的でない教会を「ダメな教会」だと上目線に評する人もいますけれど、勘違いじゃないでしょうか。

 自分のやっていることがキリスト教信仰なのか、それとも「永遠の文化祭」なのか、時々考えてみたらいいんじゃないかな、と私は思います。

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 最後に、「永遠の文化祭」について書いてらっしゃるブログ記事を拝見しましたので、下記にリンクを貼っておきます。

→「20代のカトリック信者だけど、カトリック版リア充な『カト充』の若者たちには怖くて近づけない」

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