私の知っている教会は、「特別な集会」がやたら好きでした。
毎週日曜日に礼拝するのですが、時々「◯◯特別集会」とか、「◯◯セレブレーション」とか、「◯◯ビッグデイ」とか名前を付けて、ちょっと豪華な礼拝(?)にするのですね。
具体的にはゲスト牧師を呼んだり、「特別賛美」をしたり、ダンスやスキットなどのパフォーマンスをしたり、何かの映像を流したり、どこかの会場を借りたいと、いわゆる「お祭り騒ぎ」みたいな1日にするわけです。
そういうのが月に1回程度ありましたから、信徒はいつも何らかの準備をしているような感じです。買い出しに行ったり小道具を作ったり。数日前になると、みんな集まってワイワイやりながら会場のセッティングをします。
そういうのが好きな人には楽しい日々かもしれません。毎日忙しくて、充実していて、余計なことをあれこれ考える暇がありませんから、精神衛生的には良いのかもしれません。
でもそれをもって「キリスト教は活動的でエキサイティングなもの」と考えるのはちょっと違うかなと思います。べつに活動的なのはいいんですよ。でも活動的でないとダメ、というのは違うかなと。
最近メールをいただいたんですが、教会のそういう状況を「永遠の文化祭」と表現されていて、すごく的を射ているなあと思いました。
私自身は学校の文化祭で盛り上がらないタイプの人間ですが、その雰囲気はわかります。好きな人は好きですよね。学校の一番の思い出が文化祭だ、と言う人も少なくないと思います。
教会の「特別集会」の準備風景を思い出してみますと、たしかに「文化祭」的です。みんなで手作りして、夜遅くまで残って、夜食を用意して、そんなこんなで結束が強まって・・・、ものすごく貴重な時間を共有している感覚になります。
でも繰り返しますが、それをそのまま「キリスト教」だと考えるのは違うと思います。
むしろそういう活動自体は、キリスト教とはあんまり関係ないでしょう。特別賛美やらワーシップダンスやらですごく「霊的」な、「信仰的」なことをしている感覚になるんですけれど、そういうのがなくたって礼拝や礼拝ですし、キリスト教はキリスト教ですから。
単に教会が(あるいは牧師が)特別な催しが好きだ、というだけの話ではないでしょうか。
そういう「特別な集会」では、牧師はこんなことを言います。
「この集会で打ち破りが起こる」
「大いなるブレイクスルーが起こる」
「霊的な領域でとんでもないことが起こる」
「いまだかつてない主の祝福が注がれるようになる」
なんだかすごいことが起こりそうですね!
でもそういう集会を何度やっても、どれだけ準備しても、どれだけみんなで盛り上がっても、同じようなことが延々と繰り返されるだけです。いったい何が起こったのでしょう? 「霊的な領域」のことは知りませんけれど、何も起こっていません。それに「霊的な領域」でどんなビッグバンが起ころうが、現実世界に影響しなければ結果はゼロです。
信徒の方は、本当に「すごいことが起こる」と延々と期待し続けているのでしょうか。
それとも「永遠の文化祭」を楽しんでいるのでしょうか。
あるいはその両者が入り混じっているのかもしれません。
いずれにせよ忙しいこと、活動的なこと、盛り上がっていることがキリスト教信仰なのでなく、「霊的」なのでもありません。活動的でない教会を「ダメな教会」だと上目線に評する人もいますけれど、勘違いじゃないでしょうか。
自分のやっていることがキリスト教信仰なのか、それとも「永遠の文化祭」なのか、時々考えてみたらいいんじゃないかな、と私は思います。
ーーーーーーーーーー
最後に、「永遠の文化祭」について書いてらっしゃるブログ記事を拝見しましたので、下記にリンクを貼っておきます。
→「20代のカトリック信者だけど、カトリック版リア充な『カト充』の若者たちには怖くて近づけない」
センター世の光教会は副牧師の提案でおっきな赤く塗られた十字架を担いで地域を歩いていたよ。正直参加したくねーと思ってその場を逃げたけど、それを信仰試しみたいに使うのやめてほしい。その副牧師マジかっこ悪いことは自分ではしない。いつも、2番手、3番手のイエスマンに(十字架を背負う人)そういった事はさせる卑怯な2代目牧師、なんだかいかすけなかったなー。
返信削除赤い十字架を担ぐとか、まさに文化祭のノリに聞こえますね。本人たちは信仰(?)のつもりかもしれませんが。
削除で、その2代目牧師は十字架行進をして満足されたのでしょうか。それとも次なる企画を考えるのに忙しくて、それどころではないかも?(苦笑