「牧師に従え」と語る牧師がいる。「決して独裁的な意味ではない。『従順』を通して得られる神の祝福を、あなたたちにも体験してほしいからだ」と。
そう言う彼らのロジックは驚くほど似通っている。
「もちろん牧師が間違うこともある。あなたが牧師と異なる意見を持つこともあるだろう。けれど『間違っていても従う』『同意できなくても従う』という従順に、神様が働かれるのだ」
何故かみな同じことを言う。
このロジックの問題点の一つは、「祝福」という定性も定量もできない事象を結果に位置付けている点だ。「祝福された」かどうかの判断は主観でしかないのだから、朝の情報番組の占いコーナーで、「◯◯座のあなたは今日はラッキーです」と言われるのとそう変わらない。
それに「同意できなくても従う」という信徒側の実際的な譲歩に対して、牧師が差し出すのが「祝福」という抽象的な概念でしかないのも非対称だ。信徒が毎回譲歩し、牧師が毎回主張を通す。それは牧師が「従順」を都合よく利用しているようにしか見えない。
もう一つの問題点は、牧師の専制を永続的に許すことになる点だ。もちろん何らかの緊急事態において、時間的余裕がないため「同意できなくても従う」ケースはあるかもしれない。しかし「『従順』を通して祝福を得なさい」という話には緊急時などの特定の条件付けがあるわけではない。「牧師が命令し、信徒が従う」という関係を固定化させるものだ。信徒は異を唱える機会を永久的に失う。それは一方的な使役関係、上下関係、主従関係を構築するものであり、行き着く先は奴隷制度だ。
「そんな極端な話ではない」と牧師はきっと弁明するだろう。けれど初めは小さな、取るに足りない命令と従順も、歳月を追うごとに巨大化していく。牧師に従い続けなければならないのだから、それを止めるものはない。権力が人間の強欲を炙り出すのは歴史が(キリスト教の歴史も含めて)証明している。
それは信仰でも何でもない。牧師のやりたい放題を許すことでしかない。
問題点はまだある。「従順を通して祝福を得る」のはクリスチャンと神様の関係の話なのに、牧師と信徒の関係に拡大解釈している点だ。「牧師に従うことで祝福される」なら、それは牧師の神格化に他ならない。牧師自身も「同意できなくても従う」経験をすべきだ。何故自分だけ、高みの見物ができる身分なのか。
聖書は「従順する」ことだけでなく、「異を唱える」ことも教えている。旧約から新約に至るまで、人々は神に(あるいはその時の指導者に)従順すると同時に、必要に応じて異を唱えている。反対意見を出し、不正や不当な扱いがあれば訴え出ている。その訴えが正当とされるケースも少なくない。そういった事実を無視して「従順」だけ強調するのはフェアでない。「抗議」することも教えなければならない。
結局のところ、その牧師の言葉の背後にあるのは、「反対されたくない」「面倒な話し合いをしたくない」「好き勝手にやりたい」といった我儘でしかないことが多い。牧師の幼児性、未熟さを端的に表している。