キリスト教は「神様」を信仰するものですが、「人間」とこの「神様」との関係は、具体的にどんなものでしょう。
とりわけ「人間の苦しみ」について、「神様」はどんな態度を示すのでしょうか。
これはキリスト教の教団教派によって考え方が異なりますので、一概に言えません。
人間の困難に「神の直接的な介入」があると信じる教派もありますし、それを否定する教派もあります。同じ宗教なのにまったく正反対なことを言っているのが面白いですが。
ただ実際問題として、「苦しい時に神様が超自然的に介入してくれた」という経験のある人が本当にいるのかどうか、定かでありません。もちろんそれを信じる人たちは自信をもって「ある」と言うでしょうけれど、それが「偶然」や「思い込み」や「気のせい」でないと証明するのは難しいと思います(もし一点の曇りなく証明できると言うなら、もうちょっと世間に知られているんじゃないかと思いますけどね)。
それはさておき、この問題を考えるうえで参考になりそうなのが、遠藤周作さんの小説『沈黙』です。これはなかなか衝撃的な「問いかけ」を含んでいますので、クリスチャンの方にはぜひ読んでいただきたい作品です。
内容をザックリまとめますと、棄教した師を探して来日したロドリゴ神父が、迫害に遭って、結局自身も棄教してしまう、というバッドエンド的なお話です。単純な勧善懲悪やハッピーエンドに慣れている私たちには、少々後味の悪い作品かもしれません。
この作品の感動ポイントの1つは、多分これです。
「神は沈黙していたのでなく、苦しむ者と共に苦しんでいた」
この時代、クリスチャンたちは弾圧されてました。見つかると捕縛され、拷問されたり処刑されたりしてしまいます。海外から来た神父たちも同様です。それでロドリゴ神父も最終的に捕まってしまい、棄教するか否かの決断を迫られるのでした。
このようにクリスチャンたちが苦しめられているのに、神様の「直接的な介入」はありません。むしろ「沈黙」しているようにさえ思えます。何故なのか? 神は苦しむ信徒らを見捨てられたのか?
その答えを探して悶え苦しむロドリゴ神父ですが、ついに棄教せざるを得なくなります。自分が棄教しないと、信徒たちが処刑されてしまうからです(詳しくは小説や映画をご覧になって下さいね)。
それで泣く泣く踏み絵を踏むんですが、その時、踏み絵の中のキリストが、(肉声なのか心の声なのかわかりませんが)こう語りかけてきます。
「踏むがいい。お前の足の痛さを、この私が一番よく知っている」
神はロドリゴ神父と共に苦しんでいたし、拷問される全ての信徒と共に苦しんでいたんだ、という「種明かし」がされるのですね。「神の沈黙」は人間に対する「無関心」でなく、むしろ「愛」であり「忍耐」だったのだ、と(もちろん、この話自体はフィクションです)。
これと同じような話が『あしあと(Footprints)』という詩にも書かれています。
こんな内容でした(要約です)。
『あしあと』
神様と共に歩んできたこの道。あしあとは2人分。
でもいつの間にか、1人分のあしあとになっていた。
神様、あなたはいったいどこに行ってしまわれたのですか?
すると神様の答えがあった。
「あなたが苦しい時、私があなたを背負って歩いていたんだよ」
これはマーガレット・ F・パワーズさんの1960年代の詩です。日本では90年代に発表されて、(キリスト教界で)流行しました。多くの牧師が説教に引用し、歌まで作られました。キリスト教書店には、この詩が書かれたカードや置物がズラリ(今もあるかもしれません)。
自分が苦しい時、神様も共に苦しんでおられる。そのメッセージに感動した人が、少なくなかったようです(感動しただけで終わっている気もしますが)。
この『沈黙』や『あしあと』に見られる「神様」は、ジェントルで控えめな感じです。何も語らず、陰でひっそり苦しんでいる、という印象があります。
一方で「神様の直接的な介入がある」と信じるグループの「神様」は、もっとパワフルで積極的な印象があります。「何も語らず苦しんでいる」みたいな弱々しさは感じられません。
さて、どちらの「神様」が、よりキリスト教にふさわしいのでしょうか。
結局のところ、私たちが苦しい時、神の介入は「ある」のでしょうか。「ない」のでしょうか。
私はどちらかを押し付けようとは思いません。それぞれ自分の信じたい方を信じたらいいと思います。ジェントルで控えめな神か、パワフルで積極的な神か。
ただ経験的に言えるのは、パワフルな方を期待すると失望することがある、ということですね。
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→4月15日発行のメールマガジンにて、さらに詳しく書いています。
イエスの臨終の言葉は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(我が神、我が神、何ゆえ私をお見捨てになられるのですか?)」でした。
返信削除多くのクリスチャンは見て見ぬふりをしていますが、イエスは神に見捨てられ、神の沈黙のなかで死にました。
「沈黙」は、遠藤周作の思いつきではなく、キリスト教そのものの原初的な体験だったのです。
もし、繁栄の神学が好むようなヒーローとして、成功者として、イエスが描かれていたとしたら、イエスは「インマヌエル(我らと共にいたもう神)」ではなかったでしょう。私たち人間の人生の大半は失敗と挫折だからです。
個人の生活での大小の失敗や挫折だけではなく、人類史における普遍的な正義、平和、善き社会を求める闘いもまた、失敗と挫折の連続だからです。
それでも、人権が尊重されるような善き社会が勝ち取られるなかで、どれほどの多くの無名の人々の孤独な闘いがあったでしょう。彼らのうち、どれほど多くの人々が志半ばで、理想とした社会を見ることなく、悔し涙と血を流さねばならなかったでしょう。どれほど多くの人が、「神の沈黙」に耐えねばならなかったでしょう。
イエスは、神の沈黙のなかで、神に見捨てられて死ぬことによって、同じく神に見捨てられ、神の沈黙のなかにいる私たちと共にいる「神」でありたもう。
この逆説。これこそ「復活」でありましょう。イエスが甦ったゆえに、私たちは決して見捨てられているのではなく、沈黙のなかにいるのではない。たとえ、失敗と挫折、深い孤独と苦しみのなかで人生を終えようとも、私たちは何も失いはしない。
私たち現代人にとって、「いつも人間を見守るお父さん」のような神を信仰することはできません。私たちは大人になりました。クリスチャンでさえ、本音では「神なんていない」と思っている人が少なくないでしょう。
現代において「神学」があるとしたら、まさにこの、神の不在、神の沈黙、イエスの臨終の言葉から出発しなければならないでしょう。「不在の神、されど復活の神」としてのイエスの生涯から。
聖書を知らない人は率直に言います。「神が愛ならば、なぜ人間を不完全なものとして創造したのか?なぜ、人間を万能な存在として創らなかったのか?」と。
神の意図など誰にもわかりません。ただ、神は、人間を弱いもの、有限なものとすることによって、人間が自己の弱さや有限性から他者の弱さや有限性を憐れみ、分かち合い、背負いあうことを望みたもうた。
神は、人間の肉体を万能に創造して自身に似せようとしたのではなく、人間を弱さのうちに創造して、互いに憐れみあうようにさせ、人間の「心」が神に「似る」ようになることを望みたもうた、ということなのでしょう。
丁寧な書き込み、ありがとうございます。
削除おっしゃる通り、「神の沈黙」はまず十字架のキリストに対してなされました。それは苦しみに孤独に耐える私たちの、模範となるためだったかもしれませんね。
メルマガでこの記事の続きとなる部分を書いたのですが、私たちは完全に無力になり、裸になり、皆の目に晒され、死んだような状態になった時、はじめてキリストの愛を知ることができるのかもしれません。