教会に長く通い、奉仕など頑張っていると、だんだん「見えなくなっていくもの」があります。
これは牧師はもちろん、役員とか長老とか、ベテラン信徒とか、そういうポジションの人に多いです。と言っても年輩の方だけのものではありません。若くても教会生活の長い人、たとえば幼少期から教会に通っている人、クリスチャン2世、牧師2世などにも同様に見られます。
でもそれ自体は見えなくなっていますので、これはなかなか(自分では)気づきにくい、タチの悪いものだと思います。
私はかつて教会で熱心だった者ですけれど、今は百歩か千歩か引いたところにいます。そのせいか、そういうのが少しずつ見えてきたような気がしています。
このブログを始めてちょうど5年です。そろそろ、教会で頑張っている人のためにも何か書けるかもしれません。今までは「教会を離れた人」のためにひたすら書いてきましたから、これは私にとってもちょっとした「成長」なのかもしれませんね(笑)。よくわかりませんが。
では以下に、「教会で頑張れば頑張るほど見えなくなっていくもの」を箇条書きで紹介していきたいと思います(あくまで私見ですよ)。
見えなくなっていくもの:未信者・新来者の気持ち
なんらかの興味や事情をもって、初めて教会に足を運ぶ人がいます。彼らがどんな気持ちか、ご存知でしょうか。
ほとんどの人は、少なからず緊張しています。どんな所だろう、何て言われるだろう、粗相をしてしまわないだろうか、と心配しています。
そういう人を迎えるには、それなりの配慮が必要です。
私は今でも意識的に、行ったことのない教会に行くことにしています。日曜の礼拝に突然、お客さんとして参加するのですね。
そんなことを繰り返して、すでにいろいろな教会に行ったのですけれど、初めてのところはいまだにちょっと緊張します。どんな人が出てくるか、わからないからです。
教会に慣れている人には「いつもの風景」でしょうけれど、初見の人には「新世界」ですから。おっかなビックリ、そこに入っていくわけです。
そういう人たちの気持ち、想像できますか?
個人的に「こういう人に迎えてほしい」と私が思うのは、年齢や性別に関係なく、「笑顔」です。ニコッとしてくれて、「初めてですか?」とか「ようこそ」とか言ってもらえれば、あー来て良かったなあと、それだけで幸せな気持ちになれます。
見えなくなっていくもの:奉仕しない人の気持ち
長年教会にいると、奉仕ばっかりになりますよね。忙しかったり大変だったりするかもしれません。「仕えるのも恵みです」みたいに謙遜する人もいます。
でも私が思うに、仕えるのは「特権」です。特に礼拝などの目立つ奉仕はそうです。なにかを提供する側ですから、人々から見られ、賞賛されます。そういう立場は(正直言って)気分がいいですよね。だから「特権」なのです。
それが「特権」でないと思うなら、その奉仕から完全に離れるところを想像してみて下さい。
「離れたくない」と思ったら、それはあなたにとってやっぱり「特権」なのです。他の信徒と自分を区別するもの、自分の立場を保証するもの、自分の価値を確認するもの、となっているのです(本当は、あなたの価値はそういうところにはありません)。
「特権」であることに気づかないならば、あなたは「奉仕しない人の気持ち」が見えなくなっているのだと思います。
見えなくなっていくもの:キリストの教え
これは逆説的な現象です。教会で長年活動すればするほど、キリストの教えが何なのか見えなくなっていく、という逆説です。
たくさん礼拝して、祈って、聖書を読んでいるのに、どうしてそういうことが起こるのでしょうか。
これはぶっちゃけ、有名牧師の言うことや、キリスト教界のムーブメントの方が大切になっているからです。
たとえば聖書はクリスチャンの「繁栄」など約束していませんが、「繁栄の神学」が流行っている昨今ですから、「信仰に進めば繁栄できるはず」と信じる人が少なくありません。
あるいは「献金すればするほど祝福される」と信じる人がいます。でも献金とは本来「自分が祝福されるため」に捧げるものではありません。
これらはほんの一例なんですけれど。
そういうのは聖書を読めば簡単にわかることなのですが、なぜかベテランほど、わからなくなっているようです(皆が皆ではありません)。
要するに「信仰に進むほど、信仰から迷い出てしまう」という現象です。これは一部の人たちだけの話でしょうか。いいえ、けっこう蔓延していると私は見ています。
キリストの時代にも、既にそういうことがありました。だからそれは人間の性なのかもしれません。
でもそういう危険性があると知っておくだけでも全然違うんじゃないかな、と私は思っています。