大晦日に放送されたテレビ番組「絶対に笑ってはいけない〜」で、ダウンタウンの浜田さんがブラックフェイスを披露したのが、物議を醸しましたね。「黒人差別だ」との批判が起こり、海外のメディアにも取り上げられました。それに対して「日本に黒人差別の感情はない」「ユーモアが理解できないのか」みたいな反論も起こっています。
皆さんは、どう考えられたでしょうか。
私は同番組を付き合いで少し見ましたが、あんまり面白いとは思わなかったです。むしろ蹴る、叩く、汚いことをする、という笑いが散見されて不快でした。ブラックフェイスの件は後から知りましたが、やはり何が面白いのかわかりません。ついでに嫌がるベッキーさんにタイキックを食らわすのも全然笑えません。
まあ笑いの嗜好の問題かもしれませんが、少なくとも私は全般的に「ユーモア」として理解できなかったです。
それはいいとして、ブラックフェイスは差別だったのでしょうか。それとも笑いだったのでしょうか。
差別とは、された方が「差別だ」と声を上げることで成立します。だから「差別感情はなかった」という反論には、意味がないように思います。差別感情があろうがなかろうが、意識していようがいまいが、された方が「これは差別だ」と感じたなら、それは差別だからです。
だいいち、差別者が「これは差別じゃない」と言えば差別でなくなるとしたら、じゃあ差別っていったい何なのですか? という話になります。
世界中のあらゆる差別が、「これは差別ではない」「ほんの冗談だ」という主張だけで解消されるなら、差別は存在しなくなります。でも実際にはそうではありません。
昨今大きく取り上げられるようになった、LGBTQ差別について考えてみましょう。
LGBTQとはご存知の通り、性の対象が同性だったり、両性だったり、性自認が合わなかったりすることです。それは生まれ持っての性質であり、変える必要のないものです(また、変えたくても変えられません)。
でもそれらは性の一形態であって、何ら問題ありません。統計的に少数派ですけれど、少数だから悪いなんてこともありません。
でもそれを「気持ち悪い」「同じ人間と思えない」「間違っている」みたいな評価を多数派が押し付け、あるいはからかい、あるいは笑いのネタにするので、された方は「差別」を感じるのです。そして「差別」が生まれます。した方は感じませんけれど。
ブロガーで作家のはあちゅうさんは、「スクールカーストは下からだけ見えるもの」と言っています。つまり下層に行けば行くほど「格差」を強く思い知らされる、ということです。上の層の人たちは、そんなこと気にしません。差別もこれと同じですね。
「差別なんてしてない」「あれは差別じゃない」「過剰に反応しすぎだ」と言う人は大抵、された方の気持ちがわかっていません。だからそのへんをちょっと考えてみたらいいのではないかな、と私は思います。
第十四条
返信削除1、すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
が、すぐに頭に浮かびますね。
この中で、最高裁判決で、差別だと判断されたのは、社会的身分に関わって、嫡出子、非嫡出子による差別はいけないということですね。具体的には財産分与、遺産相続において差別はいけないということで民法改正を行うように判決しました。
社会的身分ということに関しては、イエスキリストは聖ヨセフの嫡出子にあたるのかいなか、ダビデ王の子孫ということになっているが、系図を見ると途中に女性が挟み込まれているが、子孫と言えるのか?
などなど、イエスの社会的身分はいかなるものかということに関してはいろいろいわれていますね。
差別ということに関しては、憲法、法律から考えて、実態的なものかどうかが問題になりますね、具体的に不利益を受けたかどうか、精神的というものも、どれだけ金に換算できるものかということにつきますね。
感じるか感じないか、感じたか感じなかったかという感覚ではなくて、感じようが感じまいが、どれだけ現実的に不利益を受けたかという金の問題で考えるべきですね。
差別は、基本的に意識やモラル、マナーの問題だと思いますね。具体的な不利益を計測できてもできなくても、被差別者の中には明確に存在していますから。
削除マスコミはいじめや子どもと教師の問題が起こると正義ぶって報道しますが、この様な人権無視のお笑いがその種を蒔いていることに気づかないのでしょうか。日本は狂っています。
返信削除このところ、メディアのやり方には問題だなあと思うことが多々ありますね。
削除弱いものを打つのがマスコミ、出る釘は打ちのめす的な。本当のニュースは報道できないのです。報道できるニュースしか視聴者の目には届かないということです。黒幕は表に出る前に揉み消されてしまうのが現状です。ある程度の言論の自由はあるけれど、報道は独裁国家とさほど変わらないのかも。
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黒塗りメイクが人種差別になるということは、私自身、何年か前に某アイドルグループが問題になったときに初めて知りました。
返信削除それだけ、日本という国は民族的にも文化的にもガラパゴスだったということなのでしょう。
しかし、これから日本のあらゆるコンテンツは海外からも視聴可能になるでしょうし、国内に住む外国人の方も増えるでしょうから、否応なしに変わっていかざるをえないでしょう。
日本人は「思い遣り」の民族と呼ばれます。しかし、人間は有限なので、「思い」を「遣れる」範囲は限られています。相手の立場に立てない距離もあるということです。それが、差別に対する無関心につながっているのでしょう。アフリカ系の方たちは、まだ多くの日本人にとっての「隣人」とはなっていないということなのでしょう。
聖書で善きサマリヤ人の譬えがありますね。律法学者がイエスに「どこまでの距離の人を大切にすべき隣人として認めてよいか?」という趣旨の質問をしたところ、イエスは「隣人がなくて困っている人に自分から距離を縮めて、その人の隣人になれ」といった旨の答えをしたと思います。隣人でない人に対して、自分から隣人となるのだから、「隣る人」ということですね。
日本人は無宗教で多神教だから、一神教よりも寛容で懐が深いと主張する方がおられますが、全然そんなことはないのですね。一神教だろうが多神教だろうが、人間の有限性の故にみんな不寛容なところはあるわけです。別に聖書を信じなくても、人間は誰もが危険な存在で、悪を行い得る存在なわけですね。
かといって皆がクリスチャンになる必要はないですね。クリスチャンだって「自分たちに合わせられない人は隣人とみなさない」といったガラパゴスの権化のようなところがありますからね。
ただ、やはり日本人がイエスの言葉に接する機会が少ないのはもったいないと思いますね。社会も宗教も腐敗するでしょうけれども、しかしイエスの言葉が語られるところでは、必ず「隣る人」が興ると思うからですね。彼らは社会からも、宗教からも十字架につけられると思いますけれども、しかし、どんな力も彼らから何ひとつ奪い去ることはできないのですね。
キリストの言葉は、たしかに差別を覆す力になると思いますね。でも一部のクリスチャンの方々は、そのキリストの言葉を使ってさらなる差別を引き起こしていますから、これはもう使い方次第なのかなと思います。
削除クリスチャンであるかないかに関わらず、人を思いやれるかどうかという点は、個人個人に委ねられているようですね。
私はニューハーフと同棲してます。確か7年目です。それ以前は女性と交際していましたから私はクイア?よくわかりません(笑い。
返信削除普通の定義は曖昧ですが、両人ともに普通に差別もされるし、差別もします。
B型というだけで奇人変人扱いです。自分も差別する以上、初対面で「B型キモい」と言ないかぎりどうということはないし、バラエティーが占いとしてやっても拘りはないです。
男女をカトリック、LGBTQはプロテスタントに置き換えるとわかりやすいです。
プロテスタントには色々な派があります。
それを一応、束ねているのが日本基督教団というこでしょうか。
ノンクリからすると、一見どの派も尊重しているように見えます。
でも、実際はどうでしょう?また同じ派であってもトンデモ牧師やトンデモ信徒がいます。ここのブログを読むと驚くことばかりです。
ノンクリがクリスチャンはピュアとかキマジメと考えるのと同じです。
で、ネガティブな一面を見て「偽善者」と決めつけるのも偏見です。
セクシャルマイノリティにも色々な人達がいます。
LとGとBとT。実際は互いに無関心か仲がよくありません。
家人は女性のTは大嫌いです。「ホスト崩れ」といいます。家人も以前は夜の世界で接客業をしていました。じゃぁニューハーフなら仲がいいのか。
それもありません。
ショーパブ>スナック>風俗
ここにも階級があり差別があります。互いに罵るときは「お○ま」。
平和のために核を廃絶する。
正しい。
ですが実際は原水禁と原水協に分裂し罵り合いです。
保毛尾田保毛男が差別だ、というなら、女装コミックバレエ団のトロカデロ・デ・モンテカルロはどうなのですか?とLGTBの団体に私は聞きたくなります。
アメリカを中心に40年以上前から各国で公演をしています。保毛尾田騒動後、来日しましたがLGBTの団体が抗議したという話は聞きませんでした。
美川憲一が公式サポーターです。徹子の部屋でも紹介していました。
セクシャルマイノリティに限らず、誰もが「差別される側」にもなれば「差別する側」にもなります。
何処が「落とし所」か考えないと滅茶苦茶なことになります。
実際、家人がスポーツジムでバイトをしていました。そこ以外は全て落とされました。容姿と名前が一致しないのが理由です。
男性更衣室を清掃すると、男性客からクレームです。
「女性が掃除している」
女性更衣室の清掃です。
あとから、異性装者で自称性同一性障害の男性が試験採用されました。
家人とは違いロン毛に化粧をしただけです。
「なぜ、あの人は女性更衣室を掃除しているのに、私は男性更衣室の掃除なんですか?それは差別です」
すると、ジムにくる女性客に理解し同意してもらう、という話になります。
「私はココロは女だから、女として扱え」という勘違いニューハーフもいます。
男女雇用機会均等法を知らない。
「差別」や「人権」と絡められたらどうにもなりません。
誰が「やり過ぎである」と言ってくれるのか。誰もいません。
件の異性装者は別の理由を付けられクビになりました。
もう次からはTは雇わないでしょう。すると誰が他のTの人の首を締めるのか。
それこそ、自制なのですが、人種性別を問わず等しく人々はエスカレートしていきます。
いまがみさん
削除ありがとうございます。
たしかに、差別される側が一方的に差別されるのでなく、同時に差別もしている、というのはありますね。被害性と加害性の共存というか。無意識に、あるいは気づかずにしていることもあるかもしれません。
また、エスカレートしていくのも問題かもしれませんね。どんな些細な事も「差別だ」「人権侵害だ」と言われるようになったら、それはそれで窮屈な気がします。
何事も「やりすぎ」は良くないということでしょうか。
昔、HP全盛のころ匿名の掲示板から来たGの連中に掲示板を荒らされたことがあります。当時あった少年愛サイトを私は批判したのです。
返信削除「銭湯、温泉で少年を見て自宅で”する”の構わない。でも洗い場で見て”する”するのはバカである」
IPアドレスを隠して掲示場の荒らしです。
家人の親友がコミックバーで去年まで働いていました。
お客をイジりながら自分も卑下して笑いに持っていく。
一人の男性客が来ました。ぽつんとしている。
コミックバーですから「おかま」が彼のテーブルで
「お兄さん肌がキレイねぇ。私達はおかまだけどお兄さんなら綺麗なニューハーフになってみましょうよ。お化粧してみない?」
もちろん相手の表情を見ながらのトークです。
ですがお店が客から弁護士を通して訴える、と言ってきました。
「一人で飲みたかったのに、ニューハーフになるよう強要された」
家人も唖然です。
「それなら普通の店で飲めばいいし、一人で飲みたいから、と言えばいい」
なぜ法律でブン殴るまでの話になるのか?
「あんた、天気の話しか出来ないわよ。昔みたいな毒を吐いたら訴えられるわよ」
昔はカツラのお客も容赦なくイジりまたお客もノリで遊んでいました。
翌日、忘れたカツラを取りにきました(笑い
やりすぎれば、確実に窮屈な世界になると思います。
でも程度問題ですから、皆に温度差があります。
最初は
「わたしはリンゴが好き」「ぼくはミカンが好き」
徐々に
「リンゴのほうが甘い」「ミカンのほうが甘い」
理詰めでどちらが優位かを言い出し、最後は
「リンゴを食べるべきであり食べないのはバカ」「ミカンを食べるべき。リンゴを食べるのがアホ」
罵り合いになります。
ここの心理的なメカニズムを知らないとシッチャカメッチャカになるでしょう。
実際、私が教えて貰いたいところです。
芥川龍之介の「虱」も船に湧いたシラミを巡り飼う飼わないで喧嘩です(笑。
平賀源内の戯作「風流志道軒伝」、主人公深井志道軒が「大人国」「小人国」「手足長い国」・・・いろいろな国を巡ります。
ガリバー旅行記みたいなものです。
そしてそのつどジレンマに陥る。
風来山人(源内)が現れ彼にいいます。
「世界の人情をしりたる上にて世を滑稽の間にさけよと教しに、汝物にふれて心動し故、却て難儀なる事度々に及べり」
私に当てはまる言葉です。
遠藤周作、安岡章太郎も初めて海外に行き、そこで人種問題の根深さに直面します。文章はうろ覚えです。
「私は大学の人種問題を考える会に行った。彼らは黒人も黄色人も我々白人と同等に扱えばいい、と考えていた。黒人も黄色人も、私達と同じです」
安岡章太郎は1960年テネシー州ナッシュビルに行きます。
「人種差別は白人の問題であるとやっと理解した。すなわち白人は自身のヤマシさから人種差別を考えるのであり、肝心の黒人はどっちに転んでも救われないのが、ここ100年間の問題である」
いまも私にも答えが出せませんし、一方で「弱者」の使い分けをする人たちもいます。
差別とは本当は何なのか、その本質は何なのか、と考えさせられる文章ですね。ありがとうございます。
削除私は単純に「差別される側=弱者」とばかり考えていましたが、「弱者を使い分ける」ということもあるんだなあと、教えられました。
黒沢明監督の『七人の侍』は、野武士たちに襲われる農民が「弱者」なのかと思いきや、案外彼らも狡猾なんだと示すラストだったと思います。結局のところ、立場がちがえど皆人間なのだ、というような。