【時事】電車内出産と小室哲哉氏の引退会見に、聖書の言葉を当てはめてみると

2018年1月21日日曜日

時事問題

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 JR常磐線の車内で妊婦さんが破水し、そのまま出産に至った、というニュースがありました。車内での分娩はいろいろな意味で大変だったと思いますが、母子ともに無事とのことです。珍しいケースですが、何事もなくて良かったです。

 ただその間、電車が止まりましたので、急ぐ人には不都合があったでしょう。私も通勤電車が止まったら困るので、そこでのイライラは想像できます。
 でも急な出産だったのなら、仕方がないと諦めるしかないですね。お互い様な部分もあると思いますし。

 その昔、友人が電車を止めてしまったことがあります。
 電車を降りようとして足を滑らせ、電車とホームの間に落ちてしまったのです。完全に落ちたのでなく、上半身だけ残る形で。
 気づいた駅員さんが連絡してくれたので、助け出すまで、電車は止まっていてくれました。たぶん1分以内の出来事だったと思います。コントみたいな光景でしたが、あのまま発車していたら大惨事になっていたでしょう。
 その現場を見ていない人は、なんで早く発車しないんだとイライラしたかもしれません。でもそういう不可抗力な出来事があったわけです。
 まあ、足を滑らせた友人が悪い、と言えばそうかもしれませんが。

 電車内で突然産気づいた妊婦さんを、非難する声もあるみたいです。「なんでそんな状態で電車に乗ったんだ」とか、「そうなることは予想できただろう」とか。
 でもその妊婦さんにしたって、電車内で出産したかったわけではないでしょう。一番予想外だったのは本人だったと思います。

 冒頭に書いた通り、そういうのは「お互い様」と考えた方がいいと私は思います。
 電車が止まったと大騒ぎした人が、いつ足を滑らせて、電車とホームの間に落ちるかわかりません。臨月の妊婦が電車に乗るなんてけしからん、と言う人が、いつ心臓発作を起こして電車を止める羽目になるかわかりません。
 明日は我が身と言いますが、人間いつ何が起こるかわかりません。「そんなのは予想できたはずだ」と言われても、予想できなかったから起こったのです。そしてそれは誰にも起こり得ます。今まで大きなトラブルに見舞われたことがないという人は、たまたま運が良かっただけです。

 迷惑をかけた人を非難したくなるのは、人情かもしれません。でも自分がいつ迷惑をかける側に回ってしまうか、わからないのです。というより、人間誰しも、誰かに迷惑をかけたことがあるのではないでしょうか。

 もう一つ、小室哲哉さんの引退表明が、大きな話題となっています。
 テレビで引退会見が放送されましたが、衝撃を受けた方も多いようです。
 私は「吊るし上げ」を見ているようで、途中で見るのをやめました。小室さんはあまり好きではありませんが、あまりに哀れだったので。

 小室さんに限らず、昨今はああいう「吊るし上げ」報道がずいぶん多いなあと思います。なんと言うか、ちょうどいい攻撃対象を見つけてきて、皆でボコボコにする、みたいな。

 たとえば小室さんが、普段から芸能スキャンダルを取り上げて「なんて酷い奴だ」とか「芸能界から追放しろ」とか言いまくっていたのなら、今回の報道は「あー自業自得だな」としか思わないでしょう。でもそうではありません。あら探しをされ、やり玉に上げられたような形です。そしていきなり公衆の面前に引っ張り出されて、事情を説明させられたわけです。こういうのを「吊るし上げ」と言うのだと思いますが。

 聖書にも、こんなふうに「吊るし上げ」を食らった女性が登場します。
 姦淫の現場で捕らえられ、キリストの前に引っ張って来られた女性です(ヨハネの福音書8章)。
 ユダヤ人の律法によるならば、こういう女性は石打の刑に処せられます。だから男たちは石を準備して、キリストの言葉を待っていました。でもキリストはこう言います。

あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい

 すると、皆自分の罪を自覚していたのでしょう、一人また一人と去って行きました。自分のことを思うならば、この女のことは責められない、と気づいたのだと思います。

 これは聖書の有名なお話ですが、電車内で出産した妊婦さんのニュースと、小室さんの会見を見て、ふと思い出した次第です。
 皆さんはどう思われたでしょうか。

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