菊地直子さんの無罪判決
先月25日、オウム真理教の元信徒・菊地直子さんの無罪が確定しました。
菊地さんは95年の東京都庁郵便小包爆弾事件において、爆薬の原料を運んだとして、殺人未遂幇助等の罪に問われていました。17年の逃亡生活の末、2012年に逮捕されました。そして裁判を経て、昨年(2017年)無罪が確定、というのが大まかな流れです。
この判決に納得が行かない、という意見も多いようです。「悪いことをしたのになんで無罪なんだ」というような意見ですね。地下鉄サリン事件では「実行犯の送迎をした」複数の信徒が無期懲役になっていますから、それとの整合性が取れない気もします。
もちろんテロ事件は絶対的に悪いものです。どんな主義主張があろうと、それで人々を(まして無関係の人々を)傷つけていいわけがありません。だからこの計画に関わった人たちは適正な裁きを受けるべきです。菊地さんも主体的に、意図的に関わったのなら、その例外ではありません。
私は上記の経過を新聞記事で読んだだけです。だから真相はわかりません。自分が運んだものが爆薬の原料であり、殺人に使われるとハッキリ認識していたのか、あるいはそこまで認識しておらず、あくまで「教団に命じられた仕事をしただけ」だったのかは、おそらく菊地さんのみが知るところです。そして裁判では、前者については「判断できない」とされました。判断できないから裁けない、ということです。
だから教団の意図や計画とは別に、菊地さん自身に人殺しの意思があったかどうかは、わからないわけです。
この判断には、カルト教団特有の「信徒は言われた通りに動くだけ」「信徒は基本的に逆らうことができない」「信徒は思考停止状態になっている」という事情も勘案されているようです。そして、それ自体は必要なことだと私は思います。
なぜなら、「オウム真理教の人間だから悪いはずだ」「テロ事件に関与したのだから悪いはずだ」「用途がわからなくても、怪しげな薬品なのだから悪いことだとわかっていたはずだ」みたいな認識は、必ずしも正しくないからです。
被害者でもある加害者
カルト宗教の特徴の1つは、「信徒はリーダーを盲信しており、逆らえる心理状態でない」という点です。洗脳されていたり、教義的に脅されていたり、従順を教え込まれていますから、信徒の側に「リーダーに逆らう」という選択肢はそもそもありません。脱会した人たちでさえ、その洗脳を完全に解くのに長い時間がかかります。だから内部にいる人たちがどれくらい強力に縛られているか、想像できるでしょう。多少おかしいから、多少常識外れだから、多少怪しいから、と言ってその命令を拒否することはできません。
菊地さんの場合で言えば、「怪しげな薬品だから」「何に使われるかわからないから」という理由だけでは、運ぶのを拒否する根拠にはならなかった、ということです。
世間的には、怪しげな薬品を運搬すると聞いたら「悪いことに使われると疑うのが普通」でしょうけれど、菊地さんからしたら「それを拒否したらどんな目に遭うかわからない」のです。麻原教祖からも「教えを否定する気持ちを持てば無間地獄に落ちる」と教えられていたそうです。一般にはなかなか理解できない視点、事情、心理がそこにはあります。
そのあたりが勘案された判決だったのだろうと、私は考えています。
その意味で、菊地さんは(あるいは他の信徒たちも)加害者側であったと同時に、被害者でもあったと言えます。
地下鉄サリン事件に関わった信徒たちは次のように発言しています。
「教祖の意思を実行し嬉しかった」
「殺人というイメージがわかず、救済として当然のことのように受け入れた」
そこまで洗脳されてしまったのは「被害」だと思います。でもそれを実行に移した時点で、「加害者」になってしまったのでした。
キリスト教も無関係でない
おそらく多くの人が疑問に思うのが、「人の心はそんなに弱く、簡単に分別をなくしてしまうものなのか」という点だと思います。いくら洗脳されているとは言え、たとえば殺人など実行できてしまうのか、さすがに理性で止まれるのではないのか、と不思議に思うからです。
結果的に殺人に至ったのは、少なからずその人の意思だったのでしょうか?
そのへんの心理的メカニズムは、まだ十分に解明されていないようです。
さて、これは怪しげな新興宗教だけの話で、キリスト教は関係ないのでしょうか。
私は大いに関係あると思っています。
今『キマジメくんのクリスチャン生活』は「霊の戦い」の話になっていますが、あれはまさに地域社会に対する「攻撃」です。しかし中の人たち(信徒たち)は、それこそが「救済」だと信じています。これは被害の規模が全然違いますけれど、地下鉄サリン事件と基本的に同じ構図です。信徒たちは、たとえば寺社に油を撒くのを「良いこと
」「当然のこと」と考えていますが、一般的には立派な「犯罪」だからです。
しかもそれは小説の中だけでなく、実際に起こっています。
もちろんこれは一部の急進的・狂信的なキリスト教会の話です。多くの教会は「一緒にしてくれるな」と思っていることでしょう。でも前者がもっと過激になっていけば、いずれもっと攻撃的な、破壊的な行為に及ぶかもしれません。その時、社会は「キリスト教は危険だ」と言うようになり、どの教会も無関係ではなくなるでしょう。
地下鉄サリン事件の実行犯、広瀬死刑囚は、手記でこのように書いています。
「地獄といったように恐怖を呼び起こす思想には近くべきではない」
これは「地獄」だけでなく、人を恐怖させる様々なもの、たとえば「◯◯でなければ救われない」「◯◯でなければ祝福されない」といった文言にも言えます。一部の教会には、そういうことを強く言う人たちがいます。しかもまったく余裕のない、寛容さのない態度でです。
そういうのを見ると、私は地下鉄サリン事件を「どうしてもやらなければならない使命だ」と信じてしまった人たちと、全く同じではないかと思ってしまいます。
被害者であると同時に、加害者でもある。
返信削除まさにその通りだと思います。
私はカルト団体教職者が、別のキリスト教会で教職に就くのに反対です。
その理由がまさに、彼らが加害者でもあることです。
彼らは人を従わせる方法を体得していますからね。本人たちが気づかない無意識レベルで。
いわばDV加害者は必ずDVするのと同じです。
一度「人を支配する」快感を味わってしまった人は、常にその誘惑と戦い続けなければいけません。
その誘惑に勝ち続けることが難しいのは、性犯罪者が再犯を繰り返すのをみれば明らかです。
本当は私のようにキリスト教をやめるか、生涯一信徒で何の奉仕もしませんとつらぬくのがいいと思いますけどね。
カルト被害者が、べつの教会で権力を手にして加害者になる、というのは十分に考えられることですね。自分がやられて耐えてきたことを、今度は他人に課す、という構図ですね。
削除ただ、たとえば虐待を受けて育った子が親になった時、自らが虐待者になる確率は50%程度だと、何かで読んだことがあります(うろ覚えですみません)。つまり虐待された子が全員虐待者になるわけではなく、「子供にはあんな経験はさせない」と反面教師的になれる人もいる、ということですね。私はそういう可能性を信じたいとも思います。もちろん、被害の度合いや、教会内での立場、人間関係なども影響するので、一概には言えないのですが。
ただそれとは全然別の話で、カルト被害者は、時間をかけて「回復」を体験する必要があると思います。それまでは教職に就くどころか、教会に通うことさえ困難かもしれません。
その意味では、被害を受けた人が別の教会ですぐ教職に就けるようだったら、それはたぶん「何の反省もしていない」ということだと思いますね。その人は教職に就いてはいけないと私も思います。
そうですね。
削除自分が受けた虐待を、他人にやり返す心配はありますけど、私が心配するのは、組織を急成長させるカルトのやリ方を彼らが体得していることですね。
つまり、牧師の権威を使えば信徒を思いのままに動かせることを体得している彼らが、どこまで地道に誠実に信徒に仕えていけるのか、と聞かれると、私は彼らにとっては大きな葛藤だと思います。
私は今少なくとも、教職者を目指すのであれば、信徒時代も含めてカルト教会に属していた期間と同じ期間は休養して、カルトの手法を完全に取り去るべきと思います。
それから新しい教会の方法を学んで教職者を目指せばいい。
すぐに教職に就くのは、本当に反省してるのかと疑いますし、そんな彼らを受け入れる教会のことも疑いますね。
「地獄へ行くぞ」みたいなこという人って使徒4章12節大好きだよね。幼い頃に教会に通い始めて、この聖句をよく言われたな。高校時代に洗礼を受けたんだけど、動機は「人間って確かにいつ死ぬか分かんないし、地獄へ落とされるなんて怖いな…」って気持ちだけだった。それで、伝道しなきゃと周りの人を教会に誘っていたら、時代がちょうどサリン事件あたりだったので「なんかオウム信者みたい」と言われたのを思い出しちゃった。
返信削除おっしゃる通り、天国と地獄を強調する教会は危険ですね。恐怖感が原動力になりますから、どうしてもネガティブな方向に進んでしまうと思います。「オウム信者みたい」という言葉も、なんとなく恐怖感を感じ取ったからかもしれませんね。
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