2月14日の午後、フロリダ州パークランドの高校で銃乱射事件がありました。
被害に遭われた方、そのご家族、関係各所にお見舞い申し上げます。
犯人は19歳の元生徒でした。半自動ライフルを「合法的」に購入し、母校に持ち込んで、17人を殺害したのです。
学校で銃が乱射される事件は、アメリカで度々起きています。1999年のコロンバイン高校での事件が有名ですが(映画にもなりました)、日本で報道されていない事件も多数あります。ちょっと調べてみましたが、2000年代に入ってから、アメリカだけで30件以上の乱射事件が「学校で」起きています。
日本にいるとほとんど意識されませんが、いつどこで銃撃されるかわからない、というのが銃社会ですね。もちろん携帯許可証がないと銃器を持ち歩けない、などのルールはありますが、道行く人の所持品なんていちいち確認できません。だから近くにいる人が突然発砲しないなんて保証は、どこにもないわけです。
乱射事件が度々起きているのも、その証拠でしょう。
ところで今回の乱射事件は、これまでと違う経過を見せています。
事件から2日後の16日、地元の高校生たちが授業をボイコットして抗議デモを行いましたが、その動きが拡大しているのです。19日にはホワイトハウス前で抗議の「横たわり」が行われ、21日には連邦議会前で数百人規模のデモが行われました。来たる3月24日には、ワシントンで銃規制を求める大規模な集会が予定されているようです。
“It could have been your child”(これはあなたの子にも起こり得る)
でも今回はそのへんの流れにも変化がありそうです。
世論の高まりを受けて、複数の大手企業がNRAとの関係を断つと明言したのです。ハーヴァード大学やMITは、デモに参加した学生を「減点対象にしない」と発表しました。また俳優のジョージ・クルーニーや有名ブランドのグッチは、銃規制デモに多額の寄付をしました。
これはまだ途中経過で、今後どうなっていくかわかりません。でも今までになかった動きだと言えそうです。
さてアメリカの銃規制は、今後どうなっていくのでしょうか。
剣をとる? とらない?
銃規制の是非を問う議論で必ず出てくるのが、「抑止力」という言葉です。
「悪い奴らが銃を持っているんだから、こっちにも銃が必要だ」
「こっちにも銃があるとわかれば、奴らも簡単には襲ってこない」
銃と銃が均衡すれば、それはそれで平和になる、ということですね。軍隊や核ミサイルなんかと同じ理屈です。
でも被害に遭ったのは学生たちで、彼らは銃を持っていないのですが? という疑問には、トランプ米大統領がすごい回答をしてくれました。
「だったら教師が銃を持っていればいいじゃないか」
ちょっと想像してみましょう。授業中の教師の腰に、銃がぶら下がっているのです。まるで西部劇ですが、生徒たちは怖くないのでしょうか。
これを日本に置き換えるなら、先生が日本刀を持ったまま「源氏物語」を朗読するような感じです。まるで『キルビル』みたいなシュールな画なのですが。
ただ、犯人たちが乱射の舞台に学校を選ぶのには、「反撃されないから」という理由もあると思います。ということは、抑止力という考え方にも一理ありそうです。 では、学校側も何らかの形で武装した方がいいのでしょうか。
キリストはこう言っています。
「剣をとる者はみな、剣で滅びる」(マタイによる福音書26章52節)
ゲツセマネの園でローマ兵たちに捕らえられる時、剣で対抗しようとしたペテロに向かって言った言葉です。力に対して力を行使する者は、巡り巡って、いつか力によって滅ぼされる、という意味だと思います。
でも、じゃあ銃を向けられても対抗しちゃいけないのか、撃たれるままにしなきゃいけないのか、という話にもなってしまいますから、難しいところですね。どう考えたらいいのでしょうか。
キリストのオーダーは「命を守ること」にあると私は理解しています。他者の命だけでなく、もちろん自分の命もです。だからペテロのように積極的に斬りかかるべきではないと思いますし、反対に自分が危機的な状況では、自分を守るために最善を尽くすべきだと思います。そのために「力」を使うことになったとしても、それはそれで仕方のないことだと私は思います。もちろん、だからって相手を殺していいという話ではありませんけれど。
ちなみにこの手の話になると、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」(マタイによる福音書5章39節)を引用して、「無抵抗」を主張する人がいます。でもあれは無抵抗の話ではありません。力には屈しないし、力で対抗もしないけれど、自分の尊厳は自分で守る、という話です。
さてアメリカの学生たちを守るのは、銃という「剣をとる」選択でしょうか。それとも銃規制という「剣をとらない」選択でしょうか。
皆さんは、どう考えるでしょうか。
イエスは武装を許可したことがあります。
返信削除「そして彼らに言われた、「わたしが財布(さいふ)も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。
そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。あなたがたに言うが、『彼は罪人(つみびと)のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。弟子(でし)たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。」ルカ22・35―
イエスは、十字架へと赴く前に、この世に遺してゆく弟子たちのために武装を許可しました。と同時に、「剣に頼る者は、剣にて滅ぶ」と戒めました。イエスが連行される際、ペテロは兵士の耳を切りつけましたが、イエスはそれを癒しました。
「愛(アガペ)」は、守るべきもののために、剣をとるべきか?、それとも非暴力に徹するべきか?は、答えのない問いです。状況によりけりで、どちらが正しかったかは、結果からしかわかりません。
クリスチャンのなかで、自慢気に「私は一切、暴力も強制も行ったことがない!」と言う方がおられますが、彼とて自分や家族や仲間が犯罪に巻き込まれたら警察に通報するでしょう。しかし、警察というのは、間接的な暴力装置で、恣意的な暴力ではなく、管理された暴力には違いありませんが、それでも暴力には違いありません。
警察に通報して犯罪から身を守ったなら、間接的に暴力を行使したのであって、自分が直接手を汚さなかったからといって、道徳的に「高潔」な人間を気取るのは、やはりナイーブとしか言いようがありません。
もし、北斗の拳の世界のような警察権力のない無法状態だったならば、善良な牧師やクリスチャンは(善良であればあるほど!)、信徒を守るために何らかの武装をすることになるでしょう。
ガンジーやキング牧師の非暴力不服従による抵抗にしても、綿密な政治的、経済的な駆け引きの上での成功であって、そのまま模倣しても、同じ結果が得られるとは限りません。メディアを活用して、一方的な抑圧者と無抵抗の善人という印象を国際社会に印象づけることによって、国際社会の圧力というより大きな「暴力装置」を味方につけました。
所詮、この世界はエデンの園ではなく、その外側。カインとアベルの愛憎渦巻く世界です。良心や正義を貫徹するためにも力を用いざるをえません。より大きな悪を回避するために、できる限り小さい悪を選択していかなければならない世界なのです。それが、この世界の現実であり、楽園追放から神の国が来るまで間、人間に課せられた責任なのです。
巷では、中国や北朝鮮の脅威から身を守るために憲法改正の議論が活発になっております。日本は国防をアメリカに丸投げしているので、アメリカに頭が上がらず、しばしばアメリカの戦争に付き合わされるので、逆に平和国家としての資格を喪失している、という意見もあります。その意味では、「自律した」平和国家としての資格を保つためにも、独立国にふさわしい軍事力は必要なのかもしれません。
しかし、気になるのは、巷の「悪や侵略は、常に他者から、他国から来る」という論調です。武装した自分や自国が、他者や他国に悪を行わない、侵略行為をしないとどうして言えるのでしょうか?悪を行うのは、常に他者や他人であって、自分たちが力を行使するときには正当な理由があるから悪ではなく侵略でもない、と言うのでしょうか?同じような理屈でもって、過去の戦争を正当化する論調が巷に溢れています。このような論調が巷にあふれ、政治家が過去の過ちを省みないならば、日本の戦争で抑圧された国々も、国際社会も、日本の「自律」を認めてくれないでしょう。日本は70年の歳月を経ても、相変わらず「子供」のままだからです。
反省していない犯罪者や子供の手に銃が渡ることをアメリカ人が憂慮するがごとく、国際社会も日本には銃を握らせてはくれないでしょう。
深いコメントをありがとうございます。
削除たしかに私たちは「良い世界」に住んでいるわけではありませんから、大きな悪を避けるために、小さな悪を選ぶ、ということがあるでしょうね。あるいは自分では「悪」と思っていない行為が、ほかの誰かからしたら間違いなく「悪」である、ということもあると思います。
その意味で、私たちは、どうしても偽善的な一面を持ってしまうのかもしれません。