聖職者はモラハラに走り、信仰はゴッコ遊びになる

2023年6月26日月曜日

キリスト教信仰

t f B! P L

 きわめて「霊的」で「人格者」で「誠実」だと思われていた牧師が、浮気が発覚して活動休止に追い込まれた。ある夜、今後について妻と話し合うことになった。翌日、涙ながらに牧師は言った。「妻は許してくれました。そしてこれまで通りミニストリーに励み、神に仕えてほしいと言ってくれました。私にはもったいない、素晴らしい妻です」そして早速、長期の出張に出た。妻は複雑な表情だった。

 後日、妻がその夜の「話し合い」について口を開いた。

 浮気を責める妻に対して、牧師は逆ギレ。そのままマンションの屋上に上がり、「許さないなら飛び降りて死ぬしかない」と宣言した。妻はやむを得ず「許した」ことにして、「ミニストリーを続けて下さい」と言った。そう言わざるを得なかった。


 聖職者だって幾らでも人前で取り繕えるし、典型的なモラ夫になる。


 その「話し合い」の数時間前に話を戻す。浮気の証拠を掴んだ教会役員たちが、ひとまず証拠を伏せて牧師を呼び出した。「忙しい僕を一方的に呼びつけるとはどういうことだ!」と凄む牧師。しかし証拠を突きつけられたら一転して泣き出した。そして涙の悔い改めと謝罪攻勢。しかしその夜、上記の行動に出たので、「涙の悔い改めと謝罪」は全く当てにならない。


 これは私の教会(今はもう存在しない)の実話だ。話せば長くなるのでここでは省くけれど(興味のある方にはお話します)、あまりにショックな出来事だったせいか、以来牧師とか教会とか、まったく神聖なものとは思えなくなった。所詮牧師は人間だし、教会は人間が作って運営している問題だらけの組織だ。「神が導いている」というのも正直怪しいと私は思っている。

 こういう話をすると「牧師だって間違うことはある」とか「問題のない教会なんてない」とか言われることがある。しかし私はもちろん完全無欠を求めているのではない。そうでなく、普段は「神によって聖別された、油注がれた牧師!」とか「神の岩として選ばれた、聖なる教会!」とか豪語しておいて、問題を指摘されると急に「牧師だって人間ですから~」などと居直るのがダブル・スタンダードだ、という話だ。


 教団系の教会は日々堅実に礼拝を守り、粛々と信仰生活を送っている印象がある。しかし上記のような問題の大きい教会(ペンテコステ派や福音派に多い)ほど、「私たちの教会は神によって選ばれました!」や「ここは日本のリバイバルの中心です!」などの自己言及やマウントが多いと思う。そういうマウント自体が、教会を見極める際の一つの基準になるかもしれない。


 教会の自己言及といえば、「ここは日本のリバイバルの中心です!」がペンテコステ派界隈では多いと思う。同じことを日本各地の色々な教会が言うのを実際に聞いた。いったい「中心」が幾つあるのだろう? 総選挙でもして「センター」を決めたらいいのではないだろうか。


 しかしそういうのも含めて、くだらない信仰ゴッコにしか見えない。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


→続きの記事『聖書の言葉と自分の感覚、どちらを優先すべきか?』

QooQ