「ジプシークリスチャン」と呼ばないで

2022年10月11日火曜日

教会生活あれこれ

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 どこの教会にも定着せず(できず)、あちこちの教会を転々とする人が「ジプシークリスチャン」と揶揄されることが今でもあります。転々とせざるを得ない原因を本人にだけ求めていてフェアでないと思います。そうさせている教会側の問題はないのでしょうか。

 「信仰が不安定だからジプシークリスチャンになるのだ」という主張を聞いたこともあります。では毎週教会に通っている皆さんは信仰が安定しているのでしょうか。生きていれば不安定になることなど、幾らでもあると思いますが。それに「信仰が不安定だ」と言い切るのは、「ジプシークリスチャン」と深く関わった結果なのでしょうか。むしろほとんど話したことのない相手を、外面的にジャッジしているだけではないでしょうか。


 他人を「ジプシークリスチャン」と呼べる人は、自分が教会に馴染めていることを当たり前に考えすぎです。日本のプロテスタント教会は閉鎖的なコミュニティとして固定化しているところが多く、新しく加わるのは実際なかなか大変です。少なくとも礼儀正しく、ちゃんと喋れて、人間関係を的確に構築していける能力がなければいけません。「そんなの当たり前だろ」と言えるのは恵まれた人、社会生活における強者、いわゆる「標準」をクリアしている人です。そうでない人は、(そう見えないかもしれませんが)教会で居づらい思いをしていることがよくあります。そして居づらい思いをしているなら、遅かれ早かれ来なくなるのでしょう(結果、教会を転々とすることになります)。

 長く教会生活を送っていれば、「この人はいない方がいい」とか、「出て行ってくれないかな」とか、密かに思ったことがあるのではないでしょうか。そういう排除意識の集積が、いわゆる「ジプシークリスチャン」を生み出すのです。「あの人はジプシークリスチャンだ。信仰が安定していないのだろう」などと言ってしまうその人が、「ジプシークリスチャン」を生み出している張本人かもしれません。


 「ジプシークリスチャン」と同じ意味の言葉として「野生のクリスチャン」や「流浪のクリスチャン」や「野良クリスチャン」などがあります。それらは本来、本人が(時に自虐的なニュアンスを込めて)自称するものです。しかし他人がそう呼ぶと蔑視として受け取られます。厳に慎みましょう。

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