「腹を割る」ほど「ウソ」になる
教会ではよく「腹を割って話そう」とか「本当の気持ちを打ち明けよう」とか言われました。何でも正直に話すことが大切で、神様もそういう「真実の姿」を喜んでくださる、という理解です。なので「神の家族として互いに信頼して何でも正直に話す時間」を定期的に持たせられていました。私たちはそれも信仰の行いだと思っていました(カトリックの告解的な)。けれど、気持ちを無理やり吐かせる暴力だったなと振り返って思います。
「本当の気持ち」は自分でも案外わかっていないものです。自分では○○だと感じているつもりだったけれど、口に出してみるとちょっと違った、というような経験は誰にもあるのではないでしょうか。それに何でもかんでも正直に言えば良いというものでもありません。そのまま言葉にすることで誰かを傷つけたり、脅かしたりしてしまうこともあります。「本当の気持ちを打ち明ける」のは一見良いことですが、そういう雑さ、危険さがあります。言葉にできないこと、言葉にしない方がいいこともあります。
私は教会で「腹を割って話す」時、「絶対に絶対に打ち明けられないこと」はもちろん言いませんでした。「そういう場なら言ってもギリギリ差し支えないこと」を小出しにしていました。時にはさほど害のない範囲で「気持ち」を捏造したこともあります。そして互いに祈り合って、「よく打ち明けてくれましたね」とハグし合っていました。告白→祈り→和解というお約束のプロセスです。無理に「腹を割って話す」ことで、かえって浅い関係になってしまったように今は思います。
互いに「本当の気持ち」に見えるものを「本当の気持ち」のように打ち明け、「本当の気持ち」を打ち明けてもらったように受け止め、互いに「本当の気持ち」を分かち合ったつもりで和解する場だったのです。「本当」を求めすぎた結果、むしろウソっぽくなってしまったのではないでしょうか。
「対話で解決しよう」の幻想と暴力
クリスチャンの間で何か問題があると、「対話で解決しよう」という話になりやすいです。「平和を保とう」とか「互いに愛し合おう」とかの、聖書由来の価値観がそうさせるのかもしれません。同じクリスチャンなのだから話し合えば分かり合えるさ、というポジティブな考え方が背景にあります。
しかし何でもかんでも、どんな時でも「対話」を求めるのは暴力的なことです。相手が「対話」を求めていないかもしれませんし、「対話」そのものが対面弱者を痛めつけてしまうかもしれません。加害ー被害の関係にあるならば、被害者を加害者と「対話」させるのは更に傷を抉ることです。
それに両者の立場、知的レベル、知識、トークスキル、障害の有無などで力関係が不均衡な場合、「対話」は強者に有利に働き、弱者に不利に働きます。なのに強者に「ちゃんと対話した」「相手も納得した」というお墨付きを与えてしまいます。それは非常に暴力的な「対話」ではないでしょうか。
それでもどうしても「対話」が必要なら、状況に応じて第三者を交えるなどの配慮が必要です。「対話すれば解決できる」という幻想を捨てて、現実に生きている人間を見ましょう。