食事の祈り、どうしてる?

2020年7月16日木曜日

「祈り」に関する問題

t f B! P L

 レストランなどの公共の場所で「食事の祈り」をしない(あるいは声に出さない)人と、どこでもそれと分かるように声に出して祈る人が一緒にレストランに入ると、悲劇が起こりがち。


 公然と祈るのも信教の自由だし、公然と祈らないのも信教の自由。互いに「自分に合わせろ」と言うべきでない。ただ公然と祈る方が「信仰的」とか「敬虔」とかと思われがちで、公然と祈らない方がなんとなく肩身が狭くなりがち。それで無理して祈る人もいる。


 昔、超教派の集会の帰り道、そこそこ混んでいる電車の中で、「今日の集会の感謝をみんなで祈ろう」と言い出した人がいた。それでみんなを輪にならせて(辛うじて輪になるスペースはあった)、その人が大声で長めに祈って、たぶん車両内の全員から異様な目で見られていたと思う(自分もその場にいたけれど、あえて周囲を見ないようにしていたのでよく分からない)。

 信教の自由について、大いに考えさせられる出来事だった。


 これは信仰的か、そうでないか、という話以前に、衆人の中で自ら祈ることで自分の信仰をカムアウトするか、あるいは他人の祈りに巻き込まれる形で自分の信仰をアウティングされるか、という問題がある。前者はいいけれど、後者は人権侵害であり、宗教ハラスメントである。人前で公然と祈る人は(それ自体は悪いことではないけれど)、他人を巻き込む場合は注意した方がいいと思う。


 ただこのケース、「電車の中なのだから周囲の迷惑を考えて止めるべき」と批判するのも違うと思う。というのは公衆の場で祈るのも信教の自由だからだ。「ああキリスト教の人が祈ってるのね」と簡単に認識してもらえない、シューキョーの存在が受け入れられていない社会的背景の方が改善されなければならない。


 初めの話に戻ると、キリスト教徒どうしでレストランなどに入る時は、公然と祈る人か祈らない人か、事前に確認して、どうするか話し合うのがベストだと思う。「自分は普段はこうだけど、あなたのやり方に合わせますよ」などと互いに譲り合えたら尚良いだろう。くれぐれも他人の信仰をアウティングすることのないように。

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