クリスチャンにとって「祈り」って何ですか?

2018年4月21日土曜日

「祈り」に関する問題

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りの定義は何か」みたいな難しい話でなく、もっと実際的・現実的な話として、「祈り」とは何でしょう。クリスチャンとして、私たちはどんなふうに「祈り」に向き合うべきでしょうか。

 と言っても「祈り」に関しては、教団教派によっていろいろあるでしょうね。教派の違いが色濃く現れそうです。

 たとえばカトリックのミサに出ますと、祈りの定型文(?)がいくつか用意されています。ミサの最中、それらを然るべきタイミングで、皆で声を合わせて唱える感じです。定型文そのものが「祈り」なのですね。ザックリした感想で申し訳ありませんが、カトリックは「形式」を重んじるスタイルのようです。

 ところがプロテスタントの福音派、聖霊派あたりになりますと、逆に「形式的な祈りなど意味がない」となります。そして自分たちの言葉で、自由に、時に叫んだり泣いたりしながら、ドラマチックな祈りをします。
 こちらは「形式」のほとんど対極で、個々の「自由と情熱」が重んじられるようです。

 教会と言っても、いろいろ違うのですね。

 はそういう公の場の祈りでなく、個人的な、もっと生活に密着した場面での「祈り」は、どんなものでしょうか。
 すみませんがカトリックの方の「個人的な祈り」には詳しくありませんので、ここはプロテスタントの一部の話になります。

 福音派や聖霊派では「個人的な祈り」が重要とされています。個々が「祈りの習慣」を身につけて、「霊的成長」をしていかなければならない、と。だから「毎日最低1時間は祈ります」とか、「早起きして仕事前に集中して祈ります」とか、「朝昼夜の決まった時間に祈ります」とか、そういうふうにしている人もいます。
「毎日教会員1人1人の名前を挙げて祈っています」なんて人もいますね。大変だなあとしか思わないのですが。

 ところでそういう「祈りの習慣」を確立している人たちは、素晴らしい信仰者なのでしょうか。毎日何時間も祈っているから、すごく「霊的」なのでしょうか。
 はっきり言いますが、「祈り」はどれだけ習慣化しているか、どれだけ時間を掛けているか、が重要なのではありません。

 たとえば「神様、◯◯して下さい」という「お願い系の祈り」を延々とする人がいますけれど、それで「霊的成長」を遂げるんですか? だったら巣鴨のとげぬき地蔵を毎日参拝しているおばあちゃんたちなんて、とんでもなく「霊的」になっているんじゃないでしょうか。

 あるいは感情を込めてドラマチックに祈れば「霊的成長」をするんですか? だったら俳優や詐欺師の皆さんは毎日情熱的な演技をしているでしょうから、すごく「霊的」になっているはずです。

 念のため書いておきますが、とげぬき地蔵を参拝するおばあちゃんも俳優も詐欺師も、ただの喩えですよ。彼らが「霊的なクリスチャン」だと言っているのではありません。当たり前ですが。

 それはともかく、

時間を掛けているから「信仰的」だ、情熱を掛けているから「霊的」だ、真剣に取り組んでいるから「敬虔」だ、というのは、幻想に過ぎません。私たちが「そう思いたい」だけです。実際には、どれだけ神様に「お願い」したって、「霊的」に成長なんてしません。教会員全員の名前を挙げて祈るからって、何か特別な力を帯びるのではありません。

 は「祈り」とは何かと言うと、私が思うに、「形式的な祈り」と、「形式的でない祈り」とがあります。

 前者はたとえば「主の祈り」です。マタイによる福音書6章、あるいはルカによる福音書11章において、キリストが「こう祈りなさい」と明言しているものですね。毎週の礼拝で唱えている人も多いでしょう。
 他にも教派によって、定型文的に唱えられている祈りがいろいろあると思います。たとえば使徒信条とか。そういうのは全部「形式的な祈り」ですから、然るべきタイミングで、唱えたらいいと思います。

 さて後者は「形式的でない祈り」ですが、これは神様に自由に「お願い」したり、「とりなし」たりするものではありません。もっと活動的なものです。

 話が変わるようですが、たとえば皆さんは日曜日、教会に向かっている途中で急病人に遭遇したら、どうするでしょうか。救護するでしょうか。あるいは無視して教会に向かうでしょうか。
「日曜礼拝は何よりも優先しなければならない」と信じる人たちは、きっと平気で無視するでしょうね。でもキリストがその場にいたら、たぶん礼拝なんて放っておいて、救護すると思います。なぜなら人を助けることも礼拝の一部だからです。

「祈り」も同様です。
 たとえば「神様、あの人のために◯◯して下さい」と祈るのも結構ですが、だったら「あの人」のために何かしたらいいと思います。もちろんできること・できないことがありますから、無理しなくていいんですよ。ただ、祈るくらいに心が動いているなら、その心を実際に行動に表した方がいいんじゃないですか、という話です。その方が、相手にも伝わります。

 時々「あなたのために祈ってます」と言う人がいますけれど、私はあまり感心しません。「祈るだけですか?」と思うからです。ちょっと意地悪かもしれませんが(笑)。

り」とは宗教的な行為である前に、実際的・現実的な行為であるべきです。
 つまり誰かのために心を動かすから、結果的に何かの行動に出る、という種類のものです。教会に篭って何時間も祈ったって意味がありません。それで「霊的だ」とか言うのは、ただの自己満足です。厳しいことを言うようですが。

 詳細を忘れてしまったのですが、ある地域で感染症が流行した際、「癒し」を祈るのは宗教行為ではない、と言った人がいます。じゃあ何が宗教行為かと言うと、具体的な感染対策をしたり、患者を看病したりすることだと。その通りではないでしょうか。

「自分はたくさん祈っている。立派なクリスチャンだ」と思っている人は、その時間を使って、誰かのために何かをした方がいいのではないかな、と私は思います。

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