猫を縛ったグルと「自分教」

2020年7月18日土曜日

教会生活あれこれ

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「神様とのリレーションシップ(←なぜ英語?)が重要」という教えがあるけれど、神様と自分との関係性がどういう状態なのか、どういうレベルなのか、を判断するのは誰なのだろう。結局自分自身ではないだろうか。だとしたらつまり、「神様とのリレーションシップが重要」というのは、「自分自身がどう考えるかが重要」ということに他ならない。


 しかし「神様とのリレーションシップ」というカタカナ混じりの文字列によって、そのあたりがぼやけて曖昧にされ、結果そこまで突き詰めて考えることなく、「うん、そうだよね、神様とのリレーションシップが重要だよね」となんとなく自分の中で納得して終わりにしてしまっている現状があると思う。肝心の「神様とのリレーションシップ」の中身はあまり注目されないまま(あるいは前述の通り、自分がどう考えるかの話でしかないまま)。


 このような、部分的に英語に変換されたそれらしい教え、難解な用語で言葉足らずな教え、「霊的」という言葉で上手くぼやけた教え、などで分かったような分からないような状態になっている(そしてそれに気付かない)信仰者が少なくないように思う。しかし「分からない」と言うと残念な人に思われるので、言い出せない。結局みんなして「なんか分かったフリ」をしてしまう。


 そうして「なんか分かったフリ」をする人たちが後進たちに教え、後進たちも「なんか分かったフリ」をし、彼らもまたその後進たちに教え、という連鎖の中で、「なんか分かったフリ」がいつの間にか「分かったフリ」となり、「分かった」となる。その中で「分からない」と言う人間は不信仰・不従順と言われ、排除の対象となる。


 教会では「神が」という主語で様々なことが語られるけれど、突き詰めて考えると「自分が」「教会が」でしかないことがある。そこをぼやかしたまま「神が」を使い続けることで、「キリスト教」だったものがいつしか「自分教」「教会教」になる。そんなバカな、と思うかもしれないけれど、現実に起こっている。


「猫を縛ったグルの話」が面白いので紹介したい。

 いつも礼拝を邪魔する猫がいた。グルは礼拝中だけその猫を縛るようにした。だから猫はいつも礼拝中だけ縛られていた。やがてグルが死んだ。グルの意図を知らない後継たちは「礼拝中は猫を縛る」という慣習を律儀に守り続けた。やがてそれは教義となった。そして「猫を縛る」教義にそれらしい理由が後付けされた。


「猫を縛ったグルの話」

https://liturgy.co.nz/the-gurus-cat


「これがキリストの教えだ」と信じているもの、教会で当然のように教えられたもの、の中に「礼拝中は猫を縛れ」みたいな教えが混じっていないだろうか。現在の「キリスト教」がどこか部分的に「自分教」「教会教」となっている可能性は、ゼロではないと思う。

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