「社会経験のない教職者」問題

2020年7月13日月曜日

教会生活あれこれ

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 社会経験(主に被雇用者として働いた経験)のない教職者が社会で働く人たちの気持ちに寄り添えるのか? という問いがしばしば議論される。

 正確には、上司や取引先や顧客からの理不尽や、長時間の拘束、同僚間に働く同調圧力といった多くのプレッシャーに晒され続け疲弊する被雇用者たちのリアルをどれだけ「自分の事」として考えられるのか? という問いであろう。

 確かに、イベントのたびに20代の若者たちに1人5万円ずつの献金を要求したり、職場でまったく役に立たない助言をしたりと、「社会経験のない教職者」がやらかした例はいろいろ聞く。

 もちろん、「社会経験がないから分からないだろう」と決めつけるのはフェアでない。けれど同時に言えるのは、相談者側にとって大切なのは「わかってもらえた感」なので、やはり同じような苦労をしていることが教職者にとって強みになる、という点だ。

 ただそもそも議論すべきは、「教職者は信徒の気持ちをどこまで深く理解して寄り添わなければならないのか」だと思う。一人の教職者が子供から年輩者まで、全方位に対応するのは不可能だし、それを期待されるのも辛い。教職者を保護者とみなす(みなしたい)伝統や慣習が根強いのは分かるけれど、そろそろ「教職者ー信徒」の関係を見直すべき時にきていると思う。

 たぶん多くの教会が、「教職者は信徒にとって人生の指南役、ガイド役」みたいな価値観を継承し続けている。だから何かあればすぐに教職者に相談しなきゃ、呼ばなきゃ、判断して貰わなきゃ(=自分で判断できない)、という発想になる。その状況を上手く利用し続けたい教職者もいれば、そこに安住し続けたい信徒もいて、互いに利用し合う共依存みたいな関係もある。しかしそれだと結局、いつまで経っても誰も自立できない。

 教職者と信徒は主従関係でもなく、上下関係でもなく、対等でフラットな関係でいいと思う。というか、そう変わってほしい。そうなれば教職者の社会経験の有無など、誰も気にしなくなると思う。

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