パズルゲーム信仰になっていませんか

2020年3月24日火曜日

「啓示」に関する問題

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 COVID-19について祈っていたら詩篇91篇が示された、という話を聞いた。

 19に対して91、という対比を強調しているのだと思う。
 ちなみに91篇は「疫病から守られる」云々が書かれており、世界が新型コロナウィルス禍にある今こそ読みたい箇所の一つではある。

 しかし19と91という鏡数字をわざわざこじつけなくても、「クリスチャンは災いから守られる」という趣旨の箇所は沢山あるので、自由に引用して祈ったらいいと思う。同じ数字とか鏡数字とか、関連付けるのは案外どうとでもできてしまう。聖書は広く、自由に引用されるべき。

 昔AIDSの蔓延が問題視されていた頃、「この終末の時代の疫病であるエイズは、聖書が御子の名前(イエス)において既に預言されていたのだ」みたいなトンデモ話があって、椅子から転げ落ちそうになったことがある。

 要は数字合わせとか、言葉遊びとか、こじつけとか、自由自在にできてしまうということ。パズルゲームと同じ。
 それに章や節の数字が合っても、言葉があっても、何がどれだけ合致しても、それが具体的に何かの効果をもたらすわけではない。まさか詩篇91篇を唱えてれば感染しないとか、そんなこと本気で考えているわけではないでしょ。

 たまたま時計を見たら10:20で、これは○○書の10章20節を読めってことだ! とか、何も考えずに開けた聖書のページがすごくシックリきて、これは今神様が自分に語られたことだ! とか、「リアルな神様体験」を求める心理なのだろうけれど、「独りよがり感」は否めない。

「リアルな神様体験」はリアルな神様像を自分の中に作る事で、神様は自分に(具体的に)ああしてくれた、こうしてくれた、だからこういうお方だ、というイメージなり存在感なりを持つことに他ならない。ただそれが独りよがりにズレていくと、いつしか「神様」でなく、「自分が勝手にイメージした神様」になってしまう。

「信仰生活に進めば進むほど神様をより深く知ることができる」というのに自分は懐疑的。むしろ「長く信仰すればするほどわからなくなっていく」気がする。神様はこういう方だと、シンプルにわかったつもりになってしまうのが一番の「誤解」ではないだろうか。

 COVID-19に対して詩篇91篇、みたいなパズル合わせ的な信仰は、パズルゲーム信仰だと自分は思う。

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