2018年2月28日水曜日

信仰っぽい「自己実現」、敬虔っぽい「自分探し」

 今回は、ちょっと以前からモヤモヤしていることを書きます。
 怒られるかもしれませんけれど。

 クリスチャンの方で、ご自分の「神様絡みの葛藤」をSNSに綴ってらっしゃる方がいますね。

こんなことがあって、辛かったけれど、これも神様からの試練だから乗り越えます
これも私に対する神様の特別な導きですから、感謝します
罪人の私をも、神様は愛して導いておられます。◯◯を通して、それを実感しました

 いいんです。べつにいいんですよ。何を呟こうと自由ですから。
 でも、こういうのを見るといつもモヤモヤします。何故なら、こういうのを何のためにSNSで呟くのか、よくわからないからです。

 わざわざSNSに上げるということは、誰かに見てほしいということですよね。見られたくなかったら、上げないでしょうから。
 そして見られたいということは、誰かにその「葛藤」を知ってもらって、同時に「自分の信仰の状態」をアピールしたい、ということですよね。認めてほしいと言うか。そして願わくば「いいね」を押してもらったり、「励まし」のコメントをもらったりしたいのではありませんか。

 他にどういう意図があって、こういう投稿をすると言うのでしょう。
 ただの呟きであって、他意はありません、と言うでしょうか。
 それにしてはトピックとして「重たい」ですよね。知り合いが見たら心配するんじゃないでしょうか。人に無用な心配をさせるくらいなら、自分の日記帳とかディボーションノートとかに、ひっそりと書けばいいんじゃないんですか。

 ちなみに日記帳とかスケジュール帳とかに、その時その時の「葛藤」を書き留めておくのは、お勧めです。後から見返して、「ああこんなことがあったな」と自分の歩みを確認できるからです。
 自分のこれまでの歩み、つまり「過去」をしっかり持つことは、自分の「未来」を見ることです。なぜなら「過去」と「未来」は地続きになっているからです。未来はいきなりとんでもない方向にジャンプしたり、スキップしたりするのでなく、あくまで歩んできた道の先にあります。

 それはいいとして、クリスチャンの「SNS信仰アピール」はいただけないな、と私は思っています。何故かと言うと、結局自分のことしか考えていないんだな、というのがわかるからです。

この状況は神様から自分へのチャンレンジなんだ
神様はこれを通して、自分に何か語ろうとしておられるんだ
Aさんがこれをして、Bさんがあれをしたのは、自分が◯◯するためだ

 神様が中心だとか言いながら、あくまで自分が中心なのですね。
 すべてが自分のために動いている、というのが前提になっているのです。世界をそういうふうに見ているのです。意識的にか無意識的にかわかりませんが。
 だから神様が自分にこうしてくれた、ああしてくれた、きっと自分はこうなるに違いない、みたいな「自己実現」に終始してしまうのですね。

 と言っても、べつに自己実現が悪いのではないですよ。ある意味で自己実現は大切なものです。そうでなく、神様がどうのこうのと敬虔っぽいことを言いながら、結局自己実現に終始しているのがモヤモヤする、という話です。

 これが10代くらいの若者ならいいんです。若いうちは情緒不安定だったり、弱かったりしますし、「聞いてくれる人がいない」という状況も多いでしょうから。若者がSNSでそれを発散するのは(解決するかどうかは別として)、いいと思うんです。私は。

 でもいい年した大人が、「信仰」というオブラートに包んで、いまだに「自己実現」とか「自分探し」とかに終始してどうするんですか。しかもなんでそこに神様を巻き込むんですか。
 もうちょっと自立して、他者に目を向けてもいいのではないかな、と私は思うわけです。

 もちろん誰だって、自分の視点から世界を見ています。他の視点からは見られません。その意味で、世界の中心が自分なのは間違いないでしょう。
 でも神様も他者も、あなたを中心に回っているのではありません。あなたにタイミングよく何かを示そうと思って、皆が動いているのではありません。そういうのはゲームの中だけの話です。

 それよりあなたが「自分探し」や「自己実現」から多少なりとも離れて、他者に関心を示すようになることが、いわゆる「神の導き」や「神の御心」なのではないかな、と私は思います。そして他者に関心を示し、他者と関わって行くとき、あなたは逆説的に「自分自身」を見出して行くのではないでしょうか。

 以上、ちょっとモヤモヤを吐き出してみました(笑)。

2018年2月26日月曜日

銃を向けられる子供たちに、キリストの言葉は響くのですか

銃乱射事件と銃規制デモの広がり

 2月14日の午後、フロリダ州パークランドの高校で銃乱射事件がありました。
 被害に遭われた方、そのご家族、関係各所にお見舞い申し上げます。

 犯人は19歳の元生徒でした。半自動ライフルを「合法的」に購入し、母校に持ち込んで、17人を殺害したのです。
 学校で銃が乱射される事件は、アメリカで度々起きています。1999年のコロンバイン高校での事件が有名ですが(映画にもなりました)、日本で報道されていない事件も多数あります。ちょっと調べてみましたが、2000年代に入ってから、アメリカだけで30件以上の乱射事件が「学校で」起きています。

 日本にいるとほとんど意識されませんが、いつどこで銃撃されるかわからない、というのが銃社会ですね。もちろん携帯許可証がないと銃器を持ち歩けない、などのルールはありますが、道行く人の所持品なんていちいち確認できません。だから近くにいる人が突然発砲しないなんて保証は、どこにもないわけです。
 乱射事件が度々起きているのも、その証拠でしょう。

 ところで今回の乱射事件は、これまでと違う経過を見せています。

 事件から2日後の16日、地元の高校生たちが授業をボイコットして抗議デモを行いましたが、その動きが拡大しているのです。19日にはホワイトハウス前で抗議の「横たわり」が行われ、21日には連邦議会前で数百人規模のデモが行われました。来たる3月24日には、ワシントンで銃規制を求める大規模な集会が予定されているようです。

“It could have been your child”(これはあなたの子にも起こり得る)

銃規制が進まない背景には、NRA(全米ライフル協会)の大きな集票力があります。選挙で勝つにはNRAの後押しが必要ですから、政治家たちは銃規制に及び腰なのですね。だから乱射事件がいくら起こっても、銃規制はまったく進んできませんでした。

 でも今回はそのへんの流れにも変化がありそうです。
 世論の高まりを受けて、複数の大手企業がNRAとの関係を断つと明言したのです。ハーヴァード大学やMITは、デモに参加した学生を「減点対象にしない」と発表しました。また俳優のジョージ・クルーニーや有名ブランドのグッチは、銃規制デモに多額の寄付をしました。

 これはまだ途中経過で、今後どうなっていくかわかりません。でも今までになかった動きだと言えそうです。
 さてアメリカの銃規制は、今後どうなっていくのでしょうか。

剣をとる? とらない?

 銃規制の是非を問う議論で必ず出てくるのが、「抑止力」という言葉です。

「悪い奴らが銃を持っているんだから、こっちにも銃が必要だ」
「こっちにも銃があるとわかれば、奴らも簡単には襲ってこない」

 銃と銃が均衡すれば、それはそれで平和になる、ということですね。軍隊や核ミサイルなんかと同じ理屈です。
 でも被害に遭ったのは学生たちで、彼らは銃を持っていないのですが? という疑問には、トランプ米大統領がすごい回答をしてくれました。
「だったら教師が銃を持っていればいいじゃないか」
 ちょっと想像してみましょう。授業中の教師の腰に、銃がぶら下がっているのです。まるで西部劇ですが、生徒たちは怖くないのでしょうか。
 これを日本に置き換えるなら、先生が日本刀を持ったまま「源氏物語」を朗読するような感じです。まるで『キルビル』みたいなシュールな画なのですが。

 ただ、犯人たちが乱射の舞台に学校を選ぶのには、「反撃されないから」という理由もあると思います。ということは、抑止力という考え方にも一理ありそうです。  では、学校側も何らかの形で武装した方がいいのでしょうか。

 キリストはこう言っています。
剣をとる者はみな、剣で滅びる」(マタイによる福音書26章52節)
 ゲツセマネの園でローマ兵たちに捕らえられる時、剣で対抗しようとしたペテロに向かって言った言葉です。力に対して力を行使する者は、巡り巡って、いつか力によって滅ぼされる、という意味だと思います。

 でも、じゃあ銃を向けられても対抗しちゃいけないのか、撃たれるままにしなきゃいけないのか、という話にもなってしまいますから、難しいところですね。どう考えたらいいのでしょうか。

 キリストのオーダーは「命を守ること」にあると私は理解しています。他者の命だけでなく、もちろん自分の命もです。だからペテロのように積極的に斬りかかるべきではないと思いますし、反対に自分が危機的な状況では、自分を守るために最善を尽くすべきだと思います。そのために「力」を使うことになったとしても、それはそれで仕方のないことだと私は思います。もちろん、だからって相手を殺していいという話ではありませんけれど。

 ちなみにこの手の話になると、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」(マタイによる福音書5章39節)を引用して、「無抵抗」を主張する人がいます。でもあれは無抵抗の話ではありません。力には屈しないし、力で対抗もしないけれど、自分の尊厳は自分で守る、という話です。

 さてアメリカの学生たちを守るのは、銃という「剣をとる」選択でしょうか。それとも銃規制という「剣をとらない」選択でしょうか。
 皆さんは、どう考えるでしょうか。

2018年2月24日土曜日

クリスチャンは貧困問題についてどう考えるべきですか?

生活保護費の減額と、格差の拡大

 今年(2018年)の秋から、生活保護費の段階的な見直しがあるようです。
 その結果、年齢や家族構成によって異なりますが、6割以上の世帯で「減額」になるとのことです。3割強の世帯は「増額」になるようですが。
 
 ちなみに生活保護費は5年に1回、見直されています。受給していない低所得世帯との均衡を図るためですね。

 当然ながら減額になって喜ぶ人はいません。だからこの見直しには方々から非難の声が上がっています。
 ただ一方で、こんな声も(以前から)あります。

「生活保護を受けるのは恥」
「生活保護でパチンコしてるんだから減額は当然」
「生活保護は人並みの生活の為のものではない。最低限食べられるだけのものだ」

 生活保護に否定的な人たちもいる、ということですね。もちろん「生活保護そのものに反対」というわけではないと思いますが。

 これにさっそく反論(というか訂正)しますが、生活保護とは「最低限食べられるだけ」を保障するものではありません。
 日本国憲法第25条第1項は「国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(生存権)とうたっていて、これが生活保護法の根拠となっています。だから「最低限食べられるだけ」では足りません。「健康で文化的な生活」でなければならないのです。

 また、この当然の権利が「恥」なわけがありません。「恥」だと豪語する方は、ご自身が困窮する可能性を、考えていないんだと思います。

 で、今回の「減額」が何を意味するかと言うと、生活保護を受給していない低所得世帯(つまり何とか保護を受けないで生活できている世帯)の収入が、以前より下がっている、ということです。
 低所得世帯の貧困化が進んでいるから、生活保護もそれに引っ張られて下がっていく、ということですね。

 少し前にアルマーニ監修の標準服を導入した小学校の記事でも書きましたが、日本は所得格差がどんどん広がっているようです。持てる者は更に持ち、持たざる者は更に持てなくなっているようです。だから前者はアルマーニを買い、後者は厳しい生活を強いられているわけです。

生活保護と自己責任論

 生活保護に対する批判は、もう何十年も前からあります。冒頭に紹介した意見は、それこそ毎日の生活の中でも聞こえてきます。私も少なからず耳にしてきました。

 生活保護を受けている世帯には、たしかに「これはどうなんだろう」と思うケースもあります。
 たとえば保護費で毎日パチンコや競馬に精を出す人もいます(多少は勝てるから続くんでしょうけれど)。パチンコで稼いで寿司ばかり食べている人もいます。あるいは働けるように見えるけれど働かない人もいます。仕組みはよく知りませんが、不正受給できてしまう人もいます。

 一方で切実なケースもあります。
 知り合いに癌で闘病中の人がいます。家族がなく一人暮らし。体調が日々変動するので仕事には付けません。収入が途絶えてしまい、かつ毎月けっこうな治療費がかかりますから、生活保護を申請しました。いろいろありましたが結果的に保護が下り、今は治療に専念することができています。

 まさにケースバイケースです。たしかに問題もありそうですが、かと言って生活保護の制度が絶対的に悪いとか、無駄だとか、そういう極端なことは言えません。

 生活保護に対する批判の根底には、たぶん無意識的な「自己責任論」があると私は思います。貧困を招いたのは本人の責任だ、国が面倒みてやる必要なんてない、面倒みるから貧乏人が付け上がるんだ、働かないのが悪いんだ、みたいな。
 そう明言しなくても、心のどこかで考えてるんじゃないかと思います。

 そもそも日本に「社会保障」という考え方が入ってきたのは、近現代の話です。それまでは貧しければ(言い方が悪いですが)死ぬだけでした。だからそのへんの文化的・風土的「自己責任論」が、根強く残っているのかもしれません。
 私は日本人は案外「不寛容」だと思っているんですけれど、そのへんも繋がっているかもしれませんね。

相対的なものを絶対評価するナンセンス

 生活保護を巡る議論の1つは、「健康で文化的な最低限度の生活とは何か」という点です。

 毎日必要な栄養が取れればいい、というのは文化的ではありません。プラスアルファの何か、心が満たされる何かが必要です。
 じゃあそれは何なんだ? という話になると難しいですね。たとえばパチンコをやるのも「文化的」でしょうし、アルコールを飲むのも「文化的」でしょう。時々ちょっとした贅沢をするのも心の余裕には必要です。他にも映画を見たり、趣味に興じたり、旅行に行ったり、といった諸々も「文化的」に大切でしょう。

 でもそれらのどこまでがOKで、どこからがOUTなのか、というのはなかなか決められません。「最低限度」の基準は、どこにあるのでしょう。

 極端ですが、断食してでもパチンコしたい、という人もいます。服なんかどうでもいいから美味しいものが食べたい、という人もいます。だからそもそも個人個人で「最低限度」は違います。本来なら、個別的・相対的に対応するべきなのでしょう(もちろんそんなの現実的ではありませんよ)。

 そういう意味で、生活保護という制度は、相対的なものを絶対評価で測ろうとする、ナンセンスな試みだと言えます。それぞれ違う価値観を持った人たちを、単一の尺度(お金)で測ろうとするのですから。
 だから問題が生じるのは、当然と言えば当然かもしれません。

キリスト教と貧困

 キリスト教は、貧困問題に対してどんなアクションを起こすべきでしょうか。あるいは起こさないべきでしょうか。
 キリストの立場を考えるなら、「隣人を愛すべし」ですから、何らかの救貧活動をするのがふさわしいのでは、と私は思います。

 歴史的に見ると、15世紀以降イギリスで、修道院が率先して救貧活動を行った事例があります。社会保障制度ができる前の話です。これが結果的にイギリスの社会保障制度に繋がりましたから、「キリスト教が社会保障を牽引した」と言えるかもしれません。
 近年では、マザーテレサがインドで開いた「死を待つ人々の家」も有名ですね。その他にも大小様々なものがあるでしょう。

 ではこの日本はどうかと言うと、やはりクリスチャン人口が少ないですから、なかなか難しいものがあります。個人的には、上野公園でホームレスの方々に炊き出しを行なっている教会を知っていますが、そういう「救貧」を前面に打ち出しているところは、少ないようです。

 日本の教会は(と一概に言うこともできないのですが)、どちらかと言うと教会自体を維持するのに精一杯で、経済的にもマンパワー的にも、なかなか外向きになれないのが現状だと思います。

 たとえばアメリカや韓国では、メガチャーチが大きな力を持っていますから、地域に大規模に働きかけることができます。一部には政治的な影響力を持つ教会もあるようです。それもこれも資金に余裕があり、動員できる人数が多いからですね。日本とは状況が違います。

 以前の記事でも書きましたが、日本の教会は先細りが予想されています。20年後、30年後には今よりもっと人が減り、活動しづらくなっていくのですね。大きい教会と、閉じる教会との格差も広がるかもしれません。

 生活保護費が減額されるなど、貧困がますます拡大していく中、「隣人愛」を標榜するキリスト教会がそれに対して何もできないとしたら、なんとも寂しい気がします。教会が貧困に手を差し伸べるのでなく、教会自体が貧困に陥っていくとしたら・・・。

 さて、私たちは今のうちに、何かできることがあるでしょうか。

2018年2月22日木曜日

歴史(History)って、神の物語(His story)なんですか?

History は His story ?

 教会でこんな話を聞いたことがあります。
 皆さんはありますか。

歴史(History)は、神の物語(His story)なんだ

 History と His story を掛けたんですね。聞いた時は(バカだったので)ちょっと感動しました。「神の物語」という響きも詩的で好きでしたし。

 これ、要は「歴史は神のコントロール下にある」と言いたいんでしょうね。良くないことが起こっても最終的に神が勝利されるから心配ない、神が歴史というストーリーを書いておられるんだ、世界は神の思惑通りに動いていくんだ、と。

 それを聞いて盛り上がってしまう、以前の私のような人がいると思います。でもちょっと冷静に考えてみたらどうでしょう。

 神を騙った人間の物語、では

 まず多くの人が学校で「世界史」を学んだと思いますが、試験の前、〇〇年に〇〇戦争が起こって○○が勝ったとか、そういうのを延々と暗記しませんでしたか?
 そのように世界史ってほとんど「戦争の歴史」じゃないでしょうか。つまり暴力と暴虐と侵略の物語なのではないでしょうか。
 時には平和な時代もあり、良いこともあったでしょうけれど、その裏で夥しい数の人々が無残に殺され続けてきたのが歴史だと、私は思います。

 また、戦争だけではありません。ホロコーストに代表される大虐殺の数々、感染症の蔓延による大量死、多くの犠牲者を出した大災害(事故を含む)など、歴史上の悲惨な出来事は、枚挙に暇がありません。
 それらが総合的に、「神の物語」なのでしょうか?

 旧約聖書において、神は「異教徒を皆殺しにせよ」とイスラエルに命じています。女子供も容赦なくです。またノアの時代の洪水では、ノアとその家族以外の全人類をことごとく抹殺しています。ソドムの街も皆殺しでした。
 その意味では、「神の物語」が暴虐で満ちている、と言うのは納得です。

  でも今は新約の時代のはずです。キリストが2000年前に来られて、新しい契約をされたのではありませんか。そしてその契約は「愛と許し」だったのではありませんか。
 であるなら、その後の歴史が悲劇の連続だったのを、「神の物語」と言うことはできないでしょう。明らかに矛盾しています。
 キリスト教が広まったことで歴史が作られていった(あるいは影響されていった)のは間違いありませんが、その歴史において暴虐の限りを尽くしたのは、むしろキリスト教圏です。それは「神の物語」でなく、「神を騙った人間の物語」だったのではないでしょうか。

 神がコントロールしている?

「神様が歴史をコントロールしている、」というのはどうなのでしょう。
 そう信じることが「信仰」なのでしょうか。
 でも聖書はこうも言っています。
毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ」(マタイによる福音書13章29節)

 つまり悪い者がさらに悪くなるように、良い者がさらに良くなるように、「自然の成り行きに任せなさい」という意味ですね。
 これは人類の歴史にも当てはまるのではないでしょうか。
 すなわち人がどのように歩んでいくのか、何を選択するのか、それはそれぞれに委ねられている、ということです。
  であるなら「神がコントロールしている」とは言えません。

 それにもし「神がコントロールしている」としたら、ほとんど運命論になります。人が何をどう頑張ったって、結局は「神が定めた通り」になってしまう、ということですから。旧約の「エデンの園」を考えてみましょう。もし神がコントロールしていたなら、なぜエバは、禁止されている木の実を食べることができたのですか。「任されていた」からではありませんか。

 私たちはいつも、自分の意志で何かを選択しているのではないでしょうか。
 それとも「見えない力」によって、何かを「選ばされている」のでしょうか。
 もし本気で後者のように感じているとしたら、それは精神症状の一つですから、早めに病院に行った方がいいです。

 世界の中心で愛を叫ぶ?

「歴史(History)は神の物語(His story)」というのは、いかにもキリスト教圏的な考え方です。
 日本人には「無常」という仏教的思想が根強くありますから、His story と言われても、いまいちピンとこないでしょう。

 また「歴史は神の物語」という意見に同意するのは、(多くて)世界の3分の1くらいです。あとの3分の1はイスラム教、あとの3分の1は仏教やヒンズー教や無宗教だからです(ザックリとした割合です)。イスラム教も一神教ですから根本的には同意するかもしれませんが、「キリストの物語」とは認めません。

 だから「歴史は神の物語だ」と言って盛り上がっているのは、キリスト教圏だけです。
 自分たちが世界の中心でないのを、クリスチャンならよく認識しておくべきでしょう。いくら愛を叫んでも、そこは世界の中心ではないのです(読者はよく読み取るように笑)。

 人類の歴史は文字通り「人間の歴史」です。
 全人類がキリストの言葉に従い、隣人愛を実行しているなら、それは「神の物語」と言えるでしょう。でもそうはなっていません。むしろ、反対のことが起こり続けているのではないでしょうか。

 最後に「主の祈り」の一節について考えてみましょう。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(マタイによる福音書6章10節)
 みこころが地上で行われているなら、「行われますように」と祈る必要はありません。行われていないから祈るのです。
 つまり「人間の歴史」に「神の物語」が実現するのが願いなのであって、初めから「歴史=神の物語」なのではありません。

 History と His story を掛けて感動するの、もうやめにしませんか?

2018年2月20日火曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第79話

 答えあぐねるキマジメくんに、ルツ姉妹が声をかけた。
「どうでしょう、カホンに挑戦されたら? 戦いにおいては、打楽器の音も重要になると思いますから」
 それを聞いたメガネ兄弟がサッと顔を上げた。「太鼓を叩け、と聖書も言っていますよね」
 確かにそういう表現があった気がする。
 他のグループの話も聞こえてくる。どうやらどのチームも、カホンを使うようだ。ギターとカホン、あるいはピアノとカホンといった構成が多いようだ。
「実は打楽器があると、旗振りがしやすいんです」
 ルツ姉妹がはにかんだ笑顔で言う。「振るタイミングが取りやすくなるんです」
「じゃあ決まりじゃん」とメガネ。「キマジメ兄弟はカホンってことで。簡単だと思うけど、練習しておいて下さいよ」
「いえ、それはまわりが決めるものじゃありません」とタタカイ兄弟。「あくまでキマジメ兄弟が望むなら、です。それに、カホンは全然簡単じゃありませんよ」
「簡単ですよ」とメガネ。「適当に叩くだけなんだから。それにカホンもしない、執り成しもしない、となったらキマジメ兄弟は何のためにこのチームにいるんですか? 譜面でもめくるんですか?」
「必ずしも何かするのが戦いではありませんよ」とタタカイ兄弟は冷静に言う。「信仰をもってそこにいるのが第一義のはずです。賛美をしたり旗を振ったり、そういうフィジカルな行為が絶対必要なのではありません。霊の戦いなんですから」
 メガネ兄弟はまたメガネをクイッと上げた。
「ダビデの幕屋の礼拝を見てごらんなさい。様々な楽器が奏でられ、皆踊って賛美していたんですよ。旗だって振られていたでしょう。物質的なことは、霊的なことに繋がっているからです。それにパウロも、信仰は行いだと言っているでしょう。だから何もしないで座ってるだけなら、それは信仰じゃないんです」
 メガネ兄弟は言い終えると、ふうっと息を吐いた。
 ルツ姉妹は黙っているが、微妙に頷いている。メガネ兄弟の意見に同意なのだろう。
「だからと言って」タタカイ兄弟ははっきり言う。「やったことのない楽器を無理強いすべきでありません。繰り返しますけど、カホンは簡単じゃないですから」
「だったらこちらも繰り返しますけど」とメガネ兄弟。「これは戦いなんですよ。武器を持たないで戦う兵士がどこにいます? 旗も祈りも歌も楽器も、すべて我々に与えられた武器なんです。それらを用いて信仰を表し、戦うんです。それが霊の戦いなんですよ? 好むか好まないか、簡単か難しいか、そんな話じゃないんです」
 タタカイ兄弟が何か言いかけたが、キマジメくんが遮った。
「カホンやりますよ」
 皆一瞬黙った。 キマジメくんは続けた。
「僕がカホンをやります。初めてで迷惑かけるかもしれませんが、できるだけ練習してきます」
「ほら」とメガネ兄弟が勝ち誇ったように両手を広げる。「キマジメ兄弟もわかってくれたみたいですよ。当然ですけどね。じゃあ、これで決まりですね」
「本当に大丈夫ですか、キマジメ兄弟?」
 タタカイ兄弟が尋ねる。キマジメくんは「はい」とだけ答えた。
 正直不安だったけれど、あそこまで言われたら、やらないわけに行かない。それに自分が原因でチームが不和になるのは避けたかった。ただでさえタタカイ兄弟とメガネ兄弟は反りが合わない。自分がカホンを叩くことでチームが少しでも一致に向かってくれるなら、安いものだ。
「では、役割分担はそういうことにしましょうか」
 タタカイ兄弟はメモを取る。
「あともう一つ、僕から提案があります」メガネ兄弟が、メガネをクイッと上げながら言う。
「何でしょう」とタタカイ兄弟。
「このチームのリーダーの件です。どう考えても、タタカイ兄弟より、僕の方がリーダーに適任だと思うんですが」
 メガネ兄弟は一旦そこで間を置いた。キマジメくんは溜息をつきかけた。せっかくカホンを引き受けて話を終わらせたのに。しかしそんなことお構いなしに、メガネは続ける。
「タタカイ兄弟はこの教会に来てまだ日が浅いです。それに僕の方が年上です。あと、僕は執り成しの訓練を受けていますから、霊の目がしっかり開かれています。霊の流れに敏感に反応することができます。50時間の祈りにおいては、霊的敏感さが何より重要じゃないでしょうか? その点を考えても、僕がリーダーを引き受けた方がいいと思うんです」
 沈黙があった。ルツ姉妹が最初にそれを破った。
「でも思うんですけど、このチームは聖霊様の導きによるものですよね。ということは、リーダーもそれに従って決められたんじゃないでしょうか。なぜタタカイ兄弟がリーダーなのかは私にもわかりませんけど、でも神様の御意思が働いているのではないでしょうか」
 メガネ兄弟は下を向いて、メガネのフレームを小刻みにこすった。まさかルツ姉妹に反論されるとは思わなかったのだろう。唇が微妙に震えている。しかしすぐに顔を上げた。
「たしかにチーム編成は御霊の導きによるものでしょう。溝田先生もそうおっしゃっていましたから。でもリーダーの人選については、そうは言っていませんでしたよね。もしかしたら便宜上のものかもしれません」
「わかりました」ついにタタカイ兄弟が口を開いた。
「僕はリーダーをやりたいわけじゃありません。任命されたからには、全力を尽くそうと思っただけです。でもメガネ兄弟がリーダーになりたいのでしたら、僕はそれで構わないと思いますよ。メガネ兄弟、この件はぜひ、溝田先生に直接相談してみて下さい。僕はその結果に従うだけです」
 タタカイ兄弟は立派な人だ、とキマジメくんは思った。今までほとんど話したことがなかったけれど、こうして同じチームになってわかった。やはり牧師の子だからだろうか。メガネ兄弟の態度は目に余るけれど、タタカイ兄弟は最後まで冷静に対応してくれた。なかなかできるものではない。
 メガネ兄弟はそういう返事がくると思っていなかったのだろう。拍子抜けた様子で、「ああ、じゃ、そうします・・・」とだけ答えた。
 そして気まずい沈黙がやってきた。
 このチームで、本当に「50時間の祈り」を乗り切ることができるのだろうか。この話し合いを見る限り、一致して何かをしている姿が想像できない。これでリーダーがタタカイ兄弟でなくメガネ兄弟になったら、完全に破綻してしまう気がした。
 その沈黙を破ってくれたのは、溝田牧師だった。牧師はステージ中央に立ち、マイクを握っている。
「ではグループの話し合いはこのへんで。時間が足りないようだったら、各グループで後日時間を取るように。では、今後の予定について話そう」
 信徒たちは静まり、皆ステージの方を向く。牧師が話し出したら、静かにしなければならない。以前同じような状況で、いつまでも話していた信徒がいた。ひどく叱られていた。
「さっそくだが次の日曜日、50時間の祈りのデモンストレーションを行う。そこで、チームとして初めてのセッションをしてもらうから、そのつもりで」
 キマジメくんは目の前が暗くなった気がした。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2018年2月18日日曜日

クリスチャンは他宗教の人を「論破」すべきですか?

脳内BGMが尾崎豊だった頃に受けた宗教勧誘

 その昔、学生時代のことです。
 柏駅南口の広場でボンヤリしていたら、見知らぬ人に声を掛けられました。
「あなたの幸せのために、祈ってもいいですか?」
 変な宗教の勧誘だと思ったので無視しましたが、割としつこく尋ねてきます。腹が立ったので、「自分のために祈れば?」と返してその場を去りました。

 ちなみになぜ駅前でボンヤリしていたかと言うと、一口に言って「青春」だったからです。
 学校の帰り道の夕方、急に黄昏たくなって、駅前のベンチに座ってみました。脳内BGMが尾崎豊になっていた、と言えば察しのいい人はわかってくれるかもしれません。15の夜とか I Love You とか聴きながら、ひとり勝手にしんみりしていたわけです。あー恥ずかしい(笑)。

 それはいいとして、思えば当時、その手の宗教勧誘にやたら遭遇しました。
 自宅に「エ◯バの証人」がやって来て、興味本位で話を聞いたら、その後頻繁に来るようになりました。また友人が「幸◯の科学」に傾倒していて、何度も教団施設に連れて行かれそうになりました。バイト先のおばさんは天◯教でした。休憩時間によくわからない話をいろいろされましたね。

 宗教やってる人って意外と多いんだな、と思いました。実際には(日本では)それほど多くはないと思いますが。
 ちなみにそういう自分も、程なくしてキリスト教に入信したんですけどね。

 宗教勧誘について、皆さんはどんな印象を持っておられるでしょうか。
 たぶん、あまり良い印象はお持ちでないと思います。胡散臭さが先に立つのではないでしょうか。
 私も前述の「エ◯バの証人」の話を聞いた時、ほとんど瞬間的に「嘘っぽいな」と思いました。だからその後訪問に来られても、居留守を使うようになりました(まだ高校生でしたので、面と向かって断ることができなかったのです)。そのうち、来なくなりましたが。

クリスチャンは、他宗教を論破すべき?

 教会生活にどっぷり浸かっていた頃、牧師がこんな話をしていました。
「エ◯バの証人の信者がやって来たから、コテンパンに論破してやった。相手はぐうの音も出なかったよ」
 嬉しそうに勝ち誇っていました。クリスチャンなら敵を倒して当然だ、みたいな言いっぷりです。当時の私も、「危険な異端宗教なら論破して当然だ」と同意しました。

 しかしそれから年月が過ぎて、今はちょっと考え方が変わっています。

 実際に「エ◯バの証人」の方や、他の宗教の方とも会ってみてわかったのですが、礼儀正しい人もいますし、ちゃんと話が通じる人もいます。中には変な人もいるのでしょうが、私は会ったことがありません。だからさほど嫌な印象はありません(その教えに同意できるという意味ではありませんよ)。
 むしろ彼らに比べたら、キリスト教の「熱心な」人たちの方が、よっぽど話が通じない気がしますが(笑)。

 彼ら、たとえば「エ◯バの証人」の方々は、本当に、私たちが論破すべき相手なのでしょうか? 彼らは論敵である前に、私たちの隣人なのではないでしょうか? なぜ初めから「攻撃対象」になっているのでしょうか?

 そのあたりが、あまり考えられていない気がします。皆さんはどう考えられますか。

上から説教、一緒にお茶、さてどっち

 上記の牧師のような「武勇伝」は、今もけっこう聞きます。

「エ◯バの証人が教会に来たから、説教してやった」
「あの人たちには◯◯という論法で攻めればいい」
「下っ端じゃ話にならないから、偉い奴を連れてこいと言ってやった」

 何の自慢だろう、と私は思います。論破したり、貶めたり、やっつけたりしたことが、そんなに嬉しいのでしょうか。子供のケンカみたいに聞こえますが。

 確かにその手の宗教の教えには、(特にキリスト教から見て)おかしなところが多々あると思います。教義的に容認できないのもわかります。「間違いを正してあげよう」というのが悪意でないのもわかります。

 でも相手が同じ人間であることも、忘れてはなりません。
 クリスチャンだから偉いとか、立場が上だとか、そんなことは一切ありません。キリスト教が世界宗教だからと言って、あなたが世界レベルなわけではないでしょう。

 また、キリスト教が他の宗教に勝っているわけでもありません。歴史があろうがなかろうが同じ宗教です。そして信じる者にとって、それぞれの宗教は大切なものなのです。信じる自由、教義を主張する自由が皆にあります。

 そのへんを勘違いするから、上記のような子供のケンカになるんだと思います。
 いつからキリスト教が「上」になったのでしょうか。いつから他宗教を制圧していいことになったのでしょうか。そのへんを牧師が率先して勘違いしているとなると、これは問題ではないかと私は思います。

 さて、冒頭の話に戻りましょう。
 今、私があの柏駅前でボンヤリしていて、「あなたの幸せのために、祈ってもいいですか?」と聞かれたら、どう答えましょう。「その前に、あなたはどんな宗教を信じているんですか?」と聞き返すかもしれません。無下に断ったり論破したりするのでなく、対話を試みるかもしれません。
 それでも相手が(対話でなく)しつこく勧誘してきたら、それは私の問題ではなく、相手の問題ですね。対話にならないなら、それ以上はお断りするしかありません。

 と、そんなふうに私は考えています。
 最後に質問です。

「エ◯バの証人が教会に来たから説教してやった」という牧師の教会と、「エ◯バの証人が教会に来たから一緒にお茶しました」という牧師の教会があったら、あなたはどちらに行きたいですか?
 私は断然、後者に行きたいですね。

2018年2月16日金曜日

「天使」って本当にいるんですか?

 前回は悪魔の話をしましたから、今回は「天使」の話をしましょうか。

天使の実在は

 プロテスタントでは「天使」でなく「御使い」と言うことが多いと思いますが、ここでは天使としましょう。なぜか? 打つのがラクだからです(笑)。

 悪魔の話で「実在説」と「象徴説」を取り上げましたが、これは天使にも当てはまると思います。つまり天使が「実在」するのか、あるいは聖書を書いたり編纂したりした人たちの「宗教的創作」なのか、という議論です。私個人は後者の可能性が高いと思っていますが。

 そんな不信仰な! と思われるかもしれませんが、キリスト教を信仰することと、天使や悪魔の存在を否定的に考えることとは、べつに矛盾しません。天使や悪魔は信仰の絶対条件ではありませんから(絶対条件は「キリスト=神」と信じることですね)。

 あ、天使の存在を完全否定しているわけではありませんよ。可能性を考えてみましょう、という話です。

 具体的に考えてみましょう。
 ルカの福音書1章には、天使ガブリエルがマリアの処女受胎を告げにきた、という描写があります。処女受胎そのものが奇跡なんですけど、それを天使が告げに来たとなると、これはダブルで奇跡です。だからこそ「生まれた子は神の子だ」というのが、真実味を増します。

 これがもし、そういう奇跡で彩られていなかったらどうでしょう。ヨセフとマリアというどこにでもいそうな若夫婦の子が「神の子だ」と言われても、なかなかピンときませんね。皆さんの近所の子が「神の子だ」と言い出した場合を考えてみて下さい。頭がおかしいと思うんじゃないかでしょうか(笑)。

 だから「キリストは神の子なんだ」というのを強烈に印象づけるため、また神秘性を持たせるため、当時の人たちが宗教的誇張をした(せざるを得なかった)、と、考えることもできると思います。

天使体験

 ある牧師は子供の頃、車にはねられたそうです。身体がポーンと宙に舞って、あーこれはもうダメだと思ったと。でも地面にぶつかる寸前、見えないクッションに包まれて、激突を免れたそうです。瞬間的に「天使が守ってくれた」とわかったそうな。

 またある牧師は、「クリスチャンには守護天使が3人ついている」と言います。よくわかりませんが、クリスチャンであれば天使が3人体制で守ってくれるそうです。その割に酷い目に遭っているクリスチャンが少なくない気がしますが。

 ある牧師の子は、受験に向かう途中、ガラスに映る自分の背後に2人の天使を見たそうです。片方は剣を持っていたとか。ちなみにその受験の結果は合格でした。
 受験に向かうクリスチャンの方、ぜひガラスを見てみて下さい(笑)。

 というような「天使体験」を聞いたことがあります。当然ながら「聞いた」だけで、実際に「見た」わけではありませんが。
 皆さんはいかがですか。「天使体験」のある方、聞いたことのある方、ぜひシェアしてみませんか?(マジです笑)

自慢合戦に利用される天使

 さて「天使体験」があると、教会では「それはすごい」という反応になると思います。そして、

「天使体験がある」

「信仰のレベルが高い」

「すごいクリスチャン」

 みたいに思われるのではないでしょうか。
 でもこれって結局、クリスチャンの格差、レベルの違い、霊性の違い、みたいな話になってしまいます。すごい体験があればあるほど尊敬され、有利になります。でも信仰って、そういうことで測るものなのですか?

 上記の「天使が3人体制でクリスチャンを守っている」というのも、「信仰深い人には上位の天使が守護している」「重要人物には強い天使が付いている」みたいな話になります。スピリチュアル系で言うところの「守護霊様」と同じです。「善行を積めば積むほど上位の守護霊様に守ってもらえる」みたいな。

 だから天使やら悪魔やらを気にしすぎると、結局のところキリスト教の基本から離れていってしまいます。「自慢合戦」に終始してしまうわけです。

 大切なのは天使がどうこうでなく、あなた自身がどう生きるか、何をするか、だと私は思うのですが、間違っているでしょうか。

2018年2月14日水曜日

「悪魔」って本当にいるんですか?

 今回のお題はこれです。
 悪魔は実在するのか? しないのか?

「そりゃあ聖書に書いてあるんだから、実在するよ」
「あれは象徴的に書かれたものだから、実在しないよ」
 さて、どっちでしょう。ちょっと考えてみましょうか。

悪魔の影響を「治安」で見てみる

 たしかに聖書には悪魔が登場します。サタン、ベリアル、レギオンなどの名前もあります。
 彼ら悪魔は人を誘惑したり、悪い考えを吹き込んだり、人に取り憑いて狂わせたり、病気にしたり、豚を集団自殺に追い込んだりと、いろいろ活躍しています。
 だから聖書を「字義通り」に読むとしたら、間違いなく「実在する」ことになるでしょう。

 ペテロの第1の手紙5章8節によると、悪魔は「食いつくすべきものを求めて歩き回っている」ようです。流行りのゾンビものみたいですね。
 このように悪魔たちが「実際に」方々で活動しているとなると、地域の治安がものすごく悪くなりそうですが、どうなんでしょう。

 日本はどうでしょうか。クリスチャン人口がとっても少ないですから、相対的に悪魔が多い気がします。聖霊派の牧師の方々も、「日本は悪霊に縛られている」「暗闇に覆われている」とおっしゃっていますから、相当多いんじゃないでしょうか。

 でもその割に、日本は治安が良いですね。諸外国に比べて重大犯罪は少なく、テロなどまず起きません。電車の中で居眠りしても荷物を持って行かれません。落とした財布は中身が入ったまま届けられることが多いです。外国人旅行者はよく「日本人は優しい」なんて言ってくれます。

 ではクリスチャンが多い韓国はどうでしょうか。
 ソウルに行ったことがありますが、やたら教会が多くて驚きました。何千という信徒を抱えるメガチャーチも複数あります。人口の30%がクリスチャンですから、単純に考えて10人に3人がクリスチャンです。

 そういう韓国なら、悪魔の働きが弱い気がします。あるいは「神の勢力」が強くて、悪魔が働きづらそうな気がします。
 ところがどっこい、犯罪発生率は日本より数倍高いです。日本に比べたら、まだまだ治安は悪いようです。

 一部のクリスチャンの方々は悪魔を非常に恐れ、日々「戦って」います。けれど、悪魔によって引き起こされる「実害」については、よくわからないわけです。本当に「戦う」必要があるのでしょうか。

「聞く」けれど「見えない」

 私は長年「悪魔は実在する」を信じていました。当然ながら「聖書は字義通りに読むべきだ」とも信じていました。
 けれど最近は、「悪魔は何かの象徴なのかも」と考えはじめています。なぜなら聖書が全て「字義通り」であると、確認できないからです。

 聖書を「字義通り」に読むとしたら、たとえばそこに書かれている「奇跡」も「癒し」も全部「本当に起こったこと」と捉えなければなりません。また現在もそれらが「起こる」と言わなければなりません。

 でも実際、「奇跡」は起こっているのでしょうか。「癒し」は起こっているのでしょうか。「確かに起こっている」と主張する人たちはいますけれど、どこで誰に何が起こったのかというディティールは、全然教えてくれません。だから、確認できません。

「悪魔の働き」も同じです。「悪魔がこんな風に人に取り憑いていた」という話は聞きますけれど、それが具体的にどこの誰なのかわかりません。いろいろ話は「聞く」のですが、「見る」ことができず、確かめることもできません。

 そして確かめられない以上、聖書が「字義通り」かどうかも確かめられない、ということになります。

「聖書を字義通り読む」の限界

「悪魔の存在」を考えるうえで重要なのが、冒頭で紹介した「実在説」と「象徴説」の対立です。
「悪魔は実在する」という立場と、「悪魔は何かの象徴だ」とする立場が、今もぶつかっているわけです。

 聖書を「字義通り」に読んで行くと、前述の通り「確認できない」という壁にぶつかります。そしてもう1つの壁にもぶつかります。
「黙示録」という壁です。

 聖書は概ね「史実的」「物語的」に書かれています。だから読んで意味がわからないということはほとんどありません。
 でも、黙示録は違います。これを「字義通り」に読もうとしたら、大変なことになってしまいます。
 たとえば黙示録には「女」が登場しますが、彼女は太陽を着て、月を足台にして、星を冠にしています(12章1節)。どれだけ巨人なんだよっ(笑)。

 ではどうするかと言うと、黙示録だけは「象徴的」に読みます。
 たとえば「この龍は◯◯を意味する」「この女は◯◯を意味する」「この荒野は◯◯を意味する」みたいに、それぞれ解釈を付けるのです。

 でも、おかしくないですか。聖書は全て「字義通り」読むべきでだ、と言いながら、どうして黙示録だけは「象徴的」に読むのでしょう。最後まで「字義通り」で貫くべきではありませんか。
 このあたりが都合がいいなあと私は思うんですけどね。どうなんでしょう。

悪魔の正体は

 この「聖書は字義通り読む」→「でも黙示録だけは象徴的に読む」という矛盾をクリアする1つの方法として、「聖書全体を象徴的に読む」というのがあります。

 つまり、書かれているストーリーがそっくりそのまま事実なのではなく、多少の脚色や創作が混じっているだろう、という視点で読むことです(聖書が全部作り話だと言っているのではありませんよ)。
 あくまで事実がベースだけど、中には宗教的創作もあるだろう、と考えてみることです。もっとも、事実と創作の境界線は不明瞭なのですが。

 であるなら、悪魔は「人間が根本的に持っている悪意」の象徴だと、読むこともできます。悪魔という存在がどこか外部にいるのでなく、それは人間の心の中にいるのだ、と。あくまで1つの読み方としてですが。

 永井豪の傑作コミック『デビルマン』をご存知でしょうか。
 最近Netflixでリメイクされて好評を得ています。トラウマ必至なのでお勧めできませんが(笑)。

 悪魔(デーモン)が実在する世界の話です。終盤、「悪魔が人間界に潜んでいる」と学者が発表すると、人間たちは疑心暗鬼になって、殺戮を始めます。でもその学者というのがサタン本人なのですね。
 で、可憐なヒロインも殺戮に巻き込まれ、悲惨な最期を迎えます。それを見たデビルマン(主人公)が叫びます。
「お前らこそ悪魔だ」

 これはもちろん創作ですけど、事実を含んでいる思います。

 たとえばですが、キリスト教圏である西欧諸国の歴史を見てみましょう。十字軍、異端審問、魔女狩り、大航海時代の植民地化政策など、まさに殺戮の歴史です。その犠牲となった人たちは「お前らこそ悪魔だ」と思ったかもしれません。

 もちろん西欧諸国だけでなく、世界中で同じようなことが起きてきたのですけれど。

 もしかしたら人間たちの悪行があまりに酷いので、「人間がこんなことをするはずがない。悪魔に操られているのだ」みたいに考えたかったのかもしれません。悪の原因を人間の内部でなく、どこか外部に求めたかったのかもしれません。
「悪魔の存在」という外部に。

 さて、悪魔は実在するのでしょうか。

2018年2月12日月曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第78話

「では各チーム、祈ってから話し合うように」
 溝田牧師が言う。「それと、各チームのリーダーはもう決めてあるから、はじめに確認するように。チームの一番上に名前のある者がリーダーだ。何か相談や報告がある時は、リーダーが私のところに持って来なさい」
 表を見ると、キマジメくんのチームのリーダーはタタカイ兄弟だった。メガネ兄弟があからさまに顔をしかめた。不満なのだろう。
 信徒らはチームに分かれて座り、それぞれ話し合いをはじめる。見るとカンカク姉妹のチームにはノンビリ兄弟がいた。カンカク姉妹が何やら熱心にまくし立て、ノンビリ兄弟はうんうん頷きながら、メモを取っている。たぶん今夜か明朝には、その話をSNSに投稿するのだろう。なんとなく文面が想像できた。
 さてキマジメくんのチームでは、タタカイ兄弟が司会をはじめた。
「じゃあ皆さん、50時間ではよろしくお願いします。足りない者ですが、僕がこのチームのリーダーを務めさせてもらいます」
 キマジメくんと「旗振り」の姉妹は笑顔で頷く。メガネ兄弟は腕を組んで、ムスッとしたまま別の方を見ている。
「さっそく短く祈りましょう。祈りの姿勢を取って下さい」
 そしてタタカイ兄弟が祈りはじめた。50時間の祝福とか、このチームが集められたことの感謝とか、チームの一致とか、そういう無難な内容だった。淀みなく次々と祈りの言葉が出てくるところが、さすが「牧師の子」だとキマジメくんは思った。
 本人から聞いたわけではないけれど、タタカイ兄弟は将来牧師になりたいらしい。その訓練のため、お父さんの教会を離れてここに来たと、以前聞いたことがある。いわゆるインターンみたいなものか。それがどれくらいの期間なのかは聞いていなかった。いずれどこかの神学校に進むのだろうか。
 タタカイ兄弟の祈りが終わり、目を開けた。だいたいいつものことだけれど、誰かと一緒に祈ると、とたんに親近感がわいてくる。このチームも何となく絆で結ばれたように、キマジメくんは感じた。これも「聖霊が選んだ」チームだからだろうか。
 しかし、メガネ兄弟はそうは思っていないようだ。祈り終わっても、まだ唇を固く結んだまま、タタカイ兄弟を見ようともしない。この前の言い合いをまだ根に持っているのかもしれない。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 それまで黙っていた「旗振り」の姉妹が、丁寧にお辞儀しながら言った。
 彼女はルツ姉妹と言う。キマジメくんは彼女とほとんど話したことがないけれど、コーラスのメンバーなので、よく舞台に立つのを見ている。長い黒髪をぴったり真ん中で分けていて、いつも白のブラウスを着ている(しなやかな材質の、いかにも高価そうなものだ)。背筋がピンと伸びていて、日本舞踊か何かやっていそうな、丁寧で優雅な所作をする。宝塚の女優さんみたいだな、とキマジメくんは以前から思っていた。それでいて表情は穏やかで、優しい印象を受ける。
「50時間では、私は主に旗振りに専念したいと思っています。それでよろしいですか?」
 ルツ姉妹はタタカイ兄弟をまっすぐ見て尋ねる。
「そうですね」タタカイ兄弟は一瞬考えた様子だった。「とりあえず、そうして下さい。でもルツ姉妹は歌う賜物もありますから、もしかしたら歌って頂く場面もあるかもしれません。それは構いませんか?」
 ルツ姉妹は意外にも迷いを見せた。「それはどうでしょう。溝田先生に聞いてみますね」と答えを濁す。
 溝田牧師は「旗振り」の姉妹たちに特別目を掛けている様子だから、もしかしたら「旗振りに専念するように」と、彼女たちに指示したのかもしれない(とキマジメくんは思った)。
 その時はじめて、メガネ兄弟が口を開いた。
「わかってませんね、タタカイ兄弟は」
「はい?」とタタカイ兄弟。
 メガネ兄弟は、黒縁メガネをクイッと上げた。「この50時間の祈りでは、旗振りが重要な役割を担っているのですよ。チーム編成を見てみて下さい。どのチームにも最低1人、旗振りが配置されているでしょう。これは50時間のどの時間帯でも旗が振られるように、と配慮されているからです。だから旗振りは旗振りに専念すればいいんです。そんなこともわからないで、本当にリーダーが務まるのですか、タタカイ兄弟?」
 確かに見回すと、どのチームにも「旗振り」が1人ずつ入っている。キマジメくんははじめて気づいた。ほとんど均等に配置されているから、これは偶然ではなさそうだ。
 ちなみに向こうではカンカク姉妹がまだ熱弁を振るっていて、ノンビリ兄弟はまだ一生懸命メモを取っている。
「でも必ずしも、旗を振り続けることもないでしょう」
 タタカイ兄弟は不思議そうに言う。「振るか振らないかは、その時の流れによるんじゃないですか。それに2時間も振り続けたら、ルツ姉妹が大変でしょう。と言うか現実的に無理だと思いますよ。適度に休みながら、やってもらわないと。だから時々歌ってもらったらいいと思うんですけど」
「なに悠長なこと言ってるんですか?」とメガネ兄弟。「これは戦いなんですよ。疲れるかどうかの問題じゃないんです。日本が解放されるかどうかが掛かっているのに、疲れたからって休むんですか? まったく有り得ない。真剣勝負なんですよ? 犠牲はやむを得ません。それくらいルツ姉妹だって覚悟しているはずでしょう。違いますか?」
 水を向けられたルツ姉妹は一瞬戸惑いを見せたが、姿勢を正すと、「はい」と答えた。「でも、タタカイ兄弟のご配慮にも感謝します。確かに大変じゃないと言えば嘘になりますから・・・、それでも大切な戦いですから、頑張りますね」
「ほらね」とメガネ兄弟。
 タタカイ兄弟はまだ何か言いたそうだったけれど、本人が大丈夫と言っている手前、遠慮したようだった。
「わかりました。でも無理しないで下さいね。じゃあさっそく、役割分担を考えましょうか」
 タタカイ兄弟は自分の小さなノートに目を落とした。「ルツ姉妹は旗振りでいいとして、あとは僕ら3人の役割を考えましょうか」
 メガネ兄弟が真っ先に手を挙げた。「僕は執り成しの祈りをします。執り成しの賜物がありますからね。御霊の促しに従って、執り成しの祈りを捧げます。だから僕専用のマイクを一本、持たせてもらいます」
 メガネ兄弟に「執り成し」の賜物があるとは知らなかった。でも本人がそう言うからには、そうなのだろう。カンカク姉妹と同じタイプということか。
 タタカイ兄弟は黙ってメモしている。
「だからタタカイ兄弟とキマジメ兄弟で、適当に楽器を担当して下さいよ」とメガネ兄弟。「カホンくらいなら叩けるでしょう。簡単そうだから」
 タタカイ兄弟は顔を上げた。「キマジメ兄弟は、何か楽器ができますか?」
 キマジメくんは「いいえ」と即答する。楽器はやったことがない。小学校の時にピアニカを吹いたくらいだ。
「そうですか」とタタカイ兄弟。「では僕は一応ギターが弾けるので、ギターを担当しますね。キマジメ兄弟は、無理に楽器を担当しなくていいですよ。執り成しに回ってもらっても大丈夫です」
「だから執り成しは僕なんですってば」とメガネ兄弟が前のめりになって主張した。「執り成しは1チームに2人も要りません。だからキマジメ兄弟はカホンでも叩いてればいいんです」
「執り成しが2人いたって構いませんよ」とタタカイ兄弟は即座に反論した。「それにこれは、自ら率先して行う奉仕なのですから、本人の意思を尊重すべきです。キマジメ兄弟がどのようにこの50時間の祈りに仕えたいと願うか、そこが一番大切なはずです」
 メガネ兄弟は悔しそうに下を向いた。反論が思いつかなかったのだろう。「でも執り成しは特別な油注ぎなんです」とボソッと言うと、それきり黙ってしまった。
 タタカイ兄弟は改めてキマジメくんを見た。「じゃあどうしましょうか、キマジメ兄弟」
 まさかこういう選択を迫られると思っていなかった。さて、どうすべきだろう。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2018年2月10日土曜日

【時事】アルマーニ小学生 / あたしおかあさんだから・・・

アルマーニ小学生、現る

 中央区のある区立小学校が、来年度からアルマーニ監修の標準服を導入するそうです。 今年度までの標準服が2万円弱だったのに比べて、アルマーニ版は(一通り揃えると)9万円くらいになるとか。反対の声もあったようですが、結局校長が押し切った形らしいです(内部事情は知りません)。

 なんでそんな高くするんだ、なんでアルマーニなんだ、という反発も起こっているようですが、それでも入学予定者は確保されているようです。ということは、9万円ポーンと払う家庭が揃っている、ということですね。 それだけでなく、小学生の成長は早いですから、約6年間アルマーニ版と度々お付き合いしていくわけで、そういう財力が暗黙的な入学要件になっている気もします。

 もっとも私立の制服とか、中学や高校とかの制服もけっこう高いですから、9万円はべらぼうな数字ではないでしょう。でも2万円で済んだものが9万円に上がったのは、確かに高く感じます。どういう意図があるのでしょうか。

 小学生にアルマーニなんて早すぎる、みたいな意見もあると思いますが、着る方(買う方)は嬉しいのでしょうね。たぶん低学年の子は「あるまーに」なんてどうでもいいんでしょうけれど、早い子は「他との違い」「特別感」みたいなものを敏感に感じ取ると思います。親の方は言わずもがなです。

 そういう違いを楽しみたい、つまり優越感を得たい、という「客層」が、この「アルマーニ版標準服」のターゲットなのかもしれません。聞くと、学区を飛び越えて入学してくる子(家庭)が多いとのこと。学校側は標準服をあえて高価にして、富裕層だけ呼び込みたかったのかもしれません(多分そうだと思います)。

 このニュースに私が興味を持ったのは、それだけ日本の「格差」が顕在化・表面化したのだなあと思ったからです。

 かつて「一億総中流」なんて呼ばれた時代がありましたが、今は断崖絶壁みたいな格差が当たり前となりつつあります。
 都内を見回してみても、富裕層だけが住めるような街があります。富裕層だけが入れるような店もあります(本当は誰でも入れるのですよ)。明らかに富裕層をターゲットにした商品もあります。
 一方で一般層・貧困層が多く住む街があり、入る店があり、買う商品があります。
 両者には大きな格差があります。たとえば毎回の夕食に3〜4万かける世帯もあれば、月の食費が3〜4万な世帯もあります。それぞれ、見えている世界が違うのではないでしょうか。

 新約聖書のルカの福音書16章26節には、死後の世界の描写があります。
 そこでは死んだ金持ちは火に焼かれて苦しんでいますが、死んだ貧乏人ラザロは、アブラハムに抱かれて安らかです。金持ちはその窮状をアブラハムに訴えますが、アブラハムは冷徹にもこう言い放ちます。
そちらからこちらには渡れないし、こちらからそちらにも渡れない
 両者には「大きな溝」がある、というわけですね。

「アルマーニ版標準服」のニュースを見て、この「大きな溝」あるいは「断絶」あるいは「格差」みたいなものを、私は想起しました。
 その格差が良いか悪いか、という話ではありません。良くても悪くても、日本はすでにそういう社会になっているんだ、という話です。

 あーそれと、本当に金持ちが死後に火に焼かれて、貧乏人が良い思いをするかどうかは、わかりません。

賛否両論あるのは・・・ダメ?

 絵本作家ののぶみさんが書いた歌詞が、炎上しているようです。
『あたしおかあさんだから』という歌ですが、「おかあさんだから(子供のために)これだけ我慢している」「これだけ努力している」みたいな内容です。

 これを聞いて感動した人がいる一方で、「母親に自己犠牲を強いるな」と批判する人もいるようです。賛否両論なのですね。のぶみさん本人はこの批判を受けて、後日謝罪しています。

 私個人はこの歌詞が好きでも嫌いでもありませんが、子育てのネガティブな一面を切り取ったのかな、という感想があります。

 育児は確かに簡単なものではありませんが、状況は人によって様々でしょう。
 中にはものすごく苦労なさっている方もいると思います。毎日が一杯一杯で、追い詰められたような心理状態の方もいるでしょう。昨今頻発している幼児虐待は、そういう育児の困難さと無関係でありません。
 でも一方で育児を(大変なのは変わりないけれど)うまくこなしている、楽しんでいる、という方もいると思います。家族の支援を十分に受けられている方もいるでしょう。

 必ずしもネガティブな面ばかりではない、ということですね。これが、今回の批判の背景にあるのかもしれません。

 でもそもそもの話、のぶみさんの歌詞は一創作物ですから、気に入る人もいれば気に入らない人もいるのは、ごく自然なことではないでしょうか。「感動した」という感想もあれば、「母親に自己犠牲を強いるな」という感想もあっていいと思います。

 だから批判を受けて謝罪したのが、私にはどうもよくわかりません。

 もちろん作家は人気商売ですから、嫌われてしまったら仕事にならない、という事情があるのでしょう。その辺は辛いところですね。でも作ったものにケチがついていちいち謝っていたら、この先大変じゃないかなあとも思います。

 あの村上春樹さんを見て下さい。ものすごく好かれるか、ものすごく嫌われるかのどちらかです(笑)。しかも本人は嫌われても「やれやれ」としか思わないみたいです。逞しいですね。作家はそれくらいでいいんじゃないかなあと私は思うのですが。

 ところでのぶみさんは牧師家庭に育ったそうで、なかなか大変な子供時代を過ごされたそうです。その体験が、彼の作品の世界観に影響を与えているのかもしれません。

 実はのぶみさんのような「牧師の子」は、珍しくありません。過酷な子供時代を過ごした「牧師の子」を、残念ながら何人も知っています。
「羊を養う」はずの牧師が、自分の子供を十分養えないというのは、なんとも本末転倒な気がするのですけどね・・・。

2018年2月8日木曜日

「什一献金」と教会の近未来

 最近2回続けて「什一献金」について書きました。
 以下にリンクを貼っておきます。什一献金について、私の考えを述べたものです(①→②と呼んでいただくと流れがわかると思います)。

①クリスチャンって、「什一献金」を捧げるものなの?

②コインチェックの衝撃 / 什一献金を巡って / 賢さとは

 さて、今回は上記記事に関連して、ちょっと教会の「近未来」を予測してみたいと思います(預言ではありません笑)。当たるかどうかは20~30年後にわかるのですが、その頃まで、この記事が残っていればいいですね。

人口減少―教会減少

 いきなり暗い話ですが、「平成28年版高齢社会白書」(内閣府)によると、2048年に日本の総人口は1億人を下回る予測だそうです。現在問題となっている少子化が改善しなければ、あるいは移民受け入れ等しなければ、日本はどんどん人口が減っていくわけです。

 同時に高齢化も進んでいきます。2035年には高齢化率33.4%、つまり3人に1人が高齢者になります。2060年には約40%、2.5人に1人が高齢者です。人口減とも相まって、日本はなんとも寂しい感じになりそうです。

 その頃には当然ながら、教会もクリスチャンも減っているはずです。残っている教会は(今より)高齢者ばかりになるでしょう。
 クリスチャンが増えている可能性は・・・、相当低いと思います。と言うか、まずあり得ません。「大リバイバルが起こる」と根拠なく期待する人もいるでしょうが、希望的観測が過ぎるでしょう。

 日本のキリスト教界(プロテスタント)では、もうずいぶん前から「牧師の不足」が問題視されていました。牧師の高齢化、牧師を志す若年世代の減少、などがその要因です。無牧の教会も増えているようです。
 これらが今後、劇的に改善するとは思えません。過去20~30年の実績を見ればわかります。問題視されていましたが、具体的な対策は、何もありませんでしたから。
 みな雨が降るのを祈るばかりでした。そして雨が降る前に、祈り手の方がいなくなってしまった感じです。

什一献金で立ち行かなくなる教会

 さて、冒頭の記事でも紹介した通り、信徒の什一献金が主な財源になっている教会があります。他に収入がなく、什一をやめたら回らなくなる教会です。
 そういう教会は什一を死守しなければなりませんから、聖書解釈や信仰も、それに合わせたものになっています(信仰によってルールが決まったのでなく、ルールのために信仰が決まった、という感じですね)。

 そういう「什一献金教会」は近い将来、厳しい状況になっていくでしょう。
 原因は言わずもがな、人口減少と高齢化の波です。
 教会人口が減り、いるのが高齢者ばかりになったら、どうなるでしょうか。間違いなく収入が減ります。什一を払える人数が減り、年金受給者ばかりになるからです。

 ここで一つ注意ですが、年金受給者に什一献金を義務付けるのは、どう考えてもおかしいです。
 なぜなら年金には、その人が労働者時代に「積み立てた分」が含まれているからです。

 一般的なサラリーマンで言うと、毎月の給料から年金が引かれ、保険料が引かれ、各種税金が引かれます。それが40年くらい続きます。年金はその間「積み立て」られますから、基本的に「本人が先払いしたもの」と考えられます(年金制度の細かい仕組みは省きます)。
 もしその人がずっと什一献金を捧げてきたのなら、老後に毎月の年金から十分の一を払うのは、「二重払い」になります。

 だから什一献金教会は、年金受給の高齢者から什一を取ることはできません。取ってもいいですが、それはもはや什一ではありません。

 それに年金は老後の生活保障なのですから、倫理的にも、良心の問題としても、高齢者に支払いを求めるべきでありません。あなたの両親、あるいは祖父母のことを考えてみて下さい。裕福な家庭なら問題ないかもしれませんが、十分の一を払わされたら、どうなりますか。
 
 というわけで、什一献金をしている教会の多くは、20年後には深刻な財政難に陥るでしょう。その前に信徒が減り過ぎて教会の体を成さなくなっているかもしれませんが、いずれにせよ危機的な状況になると予想されます。
 もし今現在すでに厳しいなら、今後もっと厳しくなると考えた方がいいかもしれません。
 その時に強いのは、あるいは見込みがあるのは、什一献金に頼らない教会です。

 だから什一献金教会の皆さんは、聖書解釈や信仰がどうであれ、そういう現実的な未来に備えた方がいいと私は思います。

 以上、近未来予想でした。
 繰り返しますがこれは「預言」じゃありませんから、もし違ったとしても「ニセ預言者」とか言わないで下さいね(笑)。

2018年2月6日火曜日

クリスチャンって、「殉教」するべきなんですか?

家族もろとも殉教した牧師の場合

 うろ覚えで申し訳ないですが、こんな話を聞いたことがあります。

 その昔、キリスト教が激しく迫害された国がありました。クリスチャンは見つかると収監され、拷問されてしまいます。だから彼らは地下で細々と礼拝活動を行なっていました。
 しかしある時、牧師の一家が捕らえられてしまいます。牧師ですから一般信徒に比べて厳しい罰を受けます。結果、家族もろとも生き埋めが決まりました。

 しかしまだ希望はありました。棄教して、二度と戻らないと誓約すれば、命だけは助けてもらえるとのことです。しかし牧師は「主を否定するくらいなら死を選ぶ」と言います。そして最後までその意志を曲げなかったので、結局、一家もろとも生き埋めにされてしまいました。2人の子供はまだ幼かったのですが。

 その刑の最中、徐々に土を掛けられながら、穴の底で、牧師たちは賛美歌を歌っていたそうです。そして完全に埋められるまで、その歌声は続きました。土を掛けた下手人たちは、その殉教の姿を目にして、後にクリスチャンになったとか。

 この話を聞いてものすごく感動した人が少なくなかったようです。皆さんはいかがでしょうか。幼い子供までが神様のために死を選ぶなんて、なんて素晴らしいんだ・・・と涙を流されるでしょうか。

 その感動に水を差して申し訳ありませんが、これは殺人ではないかな、と私は思いました。

 と言っても、下手人たちが牧師一家を生き埋めにした、という意味の殺人ではありません。
 生き残るチャンスがあったのにそれを選ばず、助けられたはずの家族をもみすみす死なせた、という意味で、この牧師自身が殺人者なのではないか、という意味です。

 ご存知の通り、キリスト教では自殺はタブーとされています。だから生か死か選べるなら、生を選ばなければなりません。その点で牧師は(キリスト教的には)有罪ではないでしょうか。特に子供は、まだ判断力が十分でありませんから、軽々しく死を選ばせるべきでありません。

 一方で律法には、神を否定してはならないという意味の命令もあります。その点で、この牧師は死んでまで神を否定しなかったので、褒められるのかもしれません。

 そういうジレンマを含んだ話です。どっちを選んでも問題アリという。

 でも総合的に、また実際的にみて、やはり死を選ぶべきでなかったと私は考えます。死ぬくらいなら棄教すべきです。幼い子供の命が掛かっているなら、なおのこと。

 だいいち棄教と言っても、表立った宗教行為はするなというだけの意味です。本当に信仰心を捨てたかどうかなんて、確認できないのですから。心の中で信仰を保っていれば、それでいいのではないでしょうか。少なくとも神を否定したことにはなりません。もちろん表立って礼拝できないのは不本意でしょう。でもそういう国に住んでいるのだから、それはそれで仕方ありません。

 この話を聞いて感動してしまう人は、「神への忠誠」を重視するあまり、人権や生存権といった基本的なものが、見えなくなっているのだと私は思います。

信者のために棄教したロドリゴさんの場合

 同じような話を、遠藤周作の『沈黙』に見ることができます。

 主人公のロドリゴさんは、棄教した師を探して日本に来たのですが、最終的に当局に捕えられてしまいます。そして選択を迫られます。自分が棄教して他の信者たちを救うか、あるいは棄教しないで信者たちが処刑されるのを見るか、と。

 ロドリゴさんは苦しみますが、結局棄教を選びます。そして信者たちを救うのでした。

 彼はその後も日本に住み、定期的に棄教の誓約を更新させられます。そして年老いて、死を迎えます。彼の後半生は、完全にキリスト教と無関係なものでした。しかし棺に納められた彼の遺体の手の中には、小さなロザリオが。
 彼は生涯口には出さなかったけれど、内に信仰を保ち続け、決して神を否定しなかった、というメッセージですね。

 というわけで、ロドリゴさんは前述の牧師と正反対の選択をしたのでした。

 ちょっと解説すると、これはキリスト教の教義が抱えるジレンマを物語的に示したものです。
 つまりクリスチャンは神を第一としなければならないけれど、同時に隣人愛も実行しなければなりません。その両者がぶつかったらどうするんですか、というジレンマです。

 でも常識的に考えて、自己の信仰を表明するために、他者の命を犠牲にすべきでありません。人の命に比べたら、信仰の表明などただの自己満足みたいなものですから。

 その意味でロドリゴさんはまっとうな選択をしたと言えます。
 一方で冒頭の牧師はどうだったのでしょう。自分の信仰の表明のために、(自分を含む)家族を殺してしまったのではないでしょうか。

 家族を死なせてまで守りたかったのは、いったい何だったのでしょう。神への忠誠でしょうか。よく洗礼式なんかで「死に至るまで主に忠実であれ」と言いますが、アレを体現したのでしょうか。でも自分はそれで良くても、他者の命まで取っていいのですか。
 また神様ご自身は何を願うでしょうか。命が生きることではありませんか。

 キリストが十字架に掛かったのは、他者への愛のためだったはずです。そのために、父なる神との関係が(一時的であれ)断絶されるのを、良しとされたのです。つまり他者の命の方が、自分の信仰心より大切だったということです。

 だから冒頭の牧師の話で感動してしまうというのは、人の命より信仰の方が大切になってしまっているのです。良いのでしょうか? 良くありません。
 心当たりのある方は、もう一度考え直してみた方がいいと思いますね。

2018年2月4日日曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第77話

 1時間ほどで、「旗振り」と「角笛」の奉仕者たちの「指導」は終わった。
  散々怒鳴っていた溝田牧師も、最後は急に笑顔になった。
「みんな〜、よく頑張ったな〜。主が喜んでおられるよ〜」
  まるで別人のような、優しい口調。
  旗振りの姉妹たち(皆10代から20代の若者たちだ)は、それを聞いて泣いたり笑ったりしている。指導がやっと終わって嬉しいのか、旗振りをやり遂げて嬉しいのか、牧師に褒められて嬉しいのか、キマジメくんにはよくわからない。
 角笛の兄弟たち(やはり若者たちだ)も、牧師に肩をポンポン叩かれて、照れ笑いをしている。ずいぶん牧師に絞られていたけれど、大丈夫だろうか。自分もパワーポイントのことやポスターのことでずいぶん怒られてきたから、彼らがどういう気持ちか、だいたい想像できる。
 しかしそんなキマジメくんの心配をよそに、牧師が笑顔で言った。
「さあみんな、互いに愛を表していこう! そして50時間に向けて、更に一致していこう!」
 大きなアーメンが起こって、皆席を離れて握手したりハグしたりしはじめた。
 これだけ見ると、仲の良い大家族に見える。でも何か引っ掛かるものを感じる。いったいこれは何だろう。でもそれが何なのか、この時のキマジメくんにはわからなかった。
(いや、これでいいんだ。だって神の家族なんだから)
 キマジメくんはそう思うことにして、ちょうど近くにきた兄弟とハグをした。顔をよく見なかったので、相手が誰だかわからなかったけれど。

 ハグが落ち着いたところで溝田牧師がマイクを取った。
「よし、じゃあ50時間の祈りの話に入ろう」
 そして信徒たちに着席を促した。
 てっきりこれで終わりだと思ったので、正直ガッカリした。すでにミーティングが始まって、2時間近く経っている。
 しかし牧師は気にした様子もなく、続ける。
「霊的な備えができたところで、こうやって実際的なことを話すのが良いんだ。霊的に高められているから、具体的な部分をより賢く、知恵をもって決めていくことができるから。これこそ、クリスチャンの特権だよ。アダムとエバを見たまえ。彼らははじめ、死ぬことのない身体だった。つまり霊的な存在だったのだ。しかし罪によって、死ぬべき身体となった。つまり肉的な存在となった。これが何を意味するかわかるかな。はじめに霊があり、次に肉がある、ということだ。イエス様も同じだ。霊的な存在だったけれど、受肉された。つまりはじめに霊、そして肉。だから私たちもまず霊的な備えをする。そして、実際的な準備をする。これは、聖書的な流れなんだよ。聖霊の流れと言ってもいい」
 おおっ、という歓声が起こった。あちこちでアーメンが起こる。ハレルヤと泣きながら叫んだのは、姿は見えないけれどカンカク姉妹だろう。
 おそらく今夜か明日の朝には、誰かが今の話をSNSに上げそうだ。何となく、文面が想像できた。
 そんな信徒たちの感動をよそに、溝田牧師は前髪をかき上げて、ふうっと息を吐いた。キマジメくんはなぜかその仕草が妙に気になった。溝田牧師は40代半ばだが、少し若く見える。いや、最近若く見えるようになった、と言った方がいいかもしれない。髪や肌が、以前よりツヤツヤしているのだ(気のせいかもしれないけれど、とキマジメくんは思った)。
「では、50時間の具体的な話をしよう。サトリコ姉妹、プリントを配って」
 牧師の指示を受け、サトリコ姉妹が即座に立ち上がる。そして数人の姉妹と一緒になって、白い紙束を配りはじめた。A4用紙の冊子だ。ホッチキスで簡単に留められている。
 中を見ると大きな表があり、信徒たちの名前がびっしり書き込まれていた。スケジュール表のようだ。
「そこに50時間の祈りの注意事項が書いてある。各自よく読んで、備えるように。また中にスケジュール表があるのを見てほしい。これは50時間の流れと担当者を示したものだ」
 牧師の説明は、こうだった。

・「50時間の祈り」は、1日目の午後6時に始まって、3日目の午後8時に終わる。全部で50時間。
・その50時間を2時間ずつ区切る。つまり全体を25の枠で区切る。
・そのうち、朝、昼、夕の2時間ずつを全体集会とする。これは基本的に全員参加。
・全体集会以外の2時間枠を、4〜5人で構成したチームで順番に担当していく。つまり1チームで2時間祈り、終わったら次のチームと交替する、というのを順次繰り返していく。
・チームは全部で9あるから、各チームの担当枠はだいたい1日1回になる。
・担当でない時間枠は(全体集会を除いて)基本的に自由。ホールで祈り続けても、部屋で休んでも良い。

 要は、全体集会と自分の担当枠だけ責任を持って参加すればいい、ということだった。もしかしたら50時間続けて祈るのかもしれないと思ったので、キマジメくんは正直ホッとした。
「では次のページを見てほしい」
 次のページには、各チームのメンバー構成が載せられていた。キマジメくんは5番目のチームで、タタカイ兄弟と一緒だった。あと例のメガネ兄弟と、旗振りの姉妹が1人いた。全部で4人だ。
「このメンバー構成は、祈り求めつつ決めたものだ。聖霊様の導きと選びによるものだよ。だから聖霊様による一致と、平和が豊かにあるはずだ」
 溝田牧師がやはり笑顔で言う。
 キマジメくんは正直不安だった。この前、タタカイ兄弟とメガネ兄弟が言い合うのを見たばかりだったからだ。なんでこの2人が一緒のチームになったのだろう。彼らはそもそも、性格的に合わない気がする。聖霊様がどのように仲を取り持ってくれるのだろうか。
(でも、神様に不可能はないんだ、とキマジメくんは思い直そうとした。)
「じゃあ今から、それぞれチームに分かれて話し合う時間を持とう」と溝田牧師。
「50時間を一緒に過ごす仲間だから、よく一致して、祈り合って、支え合うように」
 というわけでさっそく、試練の時が来た。皆席を立って、それぞれチームに分かれていく。タタカイ兄弟がキマジメくんのところにやってきた。見るとメガネ兄弟も、仏頂面で近づいてくる。少し遅れて姉妹もやって来た。4人とも無言で集まり、無言で座った。さてどうなるだろうか。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2018年2月2日金曜日

コインチェックの衝撃 / 什一献金を巡って / 賢さとは

コインチェックの衝撃

 ビットコイン取引所の1つ、コインチェックがヤバいことになりましたね。
 出川さんがCMをするようになって知名度が上がった矢先のことです。利用者が増えたところを狙われた感じじゃないでしょうか。以前から(コインチェックは)セキュリティが甘いと指摘されていたので、あーやっぱりという感はありますが。

 こういう事件が起こると当然かもしれませんが、「だから仮想通貨なんて手を出しちゃいけないんだ」という論調になりますね。もちろん仮想通貨は値動きが激しすぎるし、今回のような件もあるし、危険なのは間違いありません。
 でもビットコインに限らずですが、こういうのは「広く認知された時点で旨味をなくす」という例に漏れない話だとも思います。

 私もビットコインを少し持っています(本当に少しですが)。海外への支払いなどに便利です。だからちょっとわかるのですが、「儲ける」という意味で本当に旨味があったのは、2017年の初めくらいまでですね。まだ利用者が少なかった頃です。具体的な人数はわかりませんが、その頃からCMなど増え、利用者が増えた感じがします。
 それ以降は「これは危険だな」という感覚があり、私も積極的に取引しなくなりました。

 広く認知されると、おいしい話もおいしくなくなります。
 だから「仮想通貨に手を出してはいけない」と言うより、「仮想通貨で稼げる時期はもう過ぎた」と言う方が私はシックリきます。もちろん今後どうなるかはわかりませんが。

投資の基本のキは

 聞くと、コインチェックに全財産を投じてしまったという人もいるようです。 そもそもですが、投資は当面の生活費を残した余剰金で行うものです。「ビットコインなら絶対大きく稼げる」と信じてしまったのでしょうか。全財産をかけるなど、よっぽどその方面の知識や戦略がなければやってはいけないことですが(その方面の知識や戦略があるなら、全財産はかけないと思いますが)。

 それはともかく、今回の件で私が連想した聖書箇所は、マタイの福音書10章16節でした。
へびのように賢く、はとのように素直であれ

 おいしそうな話に騙されるのでなく、できるだけいろいろ学んで知識を得て、賢くありたいものです。へびが本当に賢いかどうかは、よくわかりませんが。

什一献金をめぐって・・・

 話を変えます。 前回は教会の「什一献金」の是非を考える記事を書きましたが、いろいろご意見いただきました(ありがとうございます)。やはり、お金は興味関心が集まる話題のようです。

 什一献金はご存知の通り、賛成派もいれば反対派もいます。

 私は什一がダメだと言っているのでなく、それは聖書の解釈次第で変わるものだ、と言っているに過ぎません。事実、什一を集める教会もあれば、集めない教会もあります。それぞれがそれぞれの解釈に従っているのでしょう。どれが良いか悪いかの話ではありません。

 ただ私が問題にしているのは、「聖書は什一献金を信徒の義務だと言っている。だから捧げなければならない」と断言してしまうことです。特に信じて日の浅い信徒は、そう言われたら信じてしまいます。本当は多様な考え方があるのに、「これだけが唯一正しい道だ」「この道でなければ本当の救いではない」と教えられてしまうと、信徒の側に選択肢はありません。
 そういうのはほとんど詐欺だと、私は言っているのです。そうではありませんか。

 そういう詐欺が横行する教会では、信徒はいくら生活に困窮しても、什一を払い続けなければなりません。そして苦しい生活を強いられます。でもそれを「信仰」「主のため」と思って耐えています。哀れとしか言いようがありません。

 キリストは隣人愛を説いているはずですが、そういう教会に、信徒を愛する愛はあるのでしょうか。ないと私は思いますが。

 では、生活困窮者の什一は免除しよう、という話になるでしょうか。ではその「困窮の基準」はどうやって決めますか。余裕はないけど什一を払っている、という人たちはどうなりますか。そのへんの公平性を保てますか。
 また困窮を理由に免除していいなら、「聖書は什一を捧げるよう命じている」という持論はどうなりますか。なぜ命じられているのに、勝手に免除するのですか。

 だから私は前回の記事でも書いたのですが、現在の什一献金は、「教会を支えるためのシステム」となっているのです。だから信仰というより教会政治の話なんだ、と書いたわけですね。

 そもそもの話ですが、キリスト教の発展は政治と切り離せません。歴史を学べばそれがわかります。つまりキリスト教は信仰によって広まったのでなく、政治に利用されて広まったのです。

 そしてその歴史の流れを踏まえるなら、什一献金が教会維持のシステムに組み込まれているとしても、何ら不思議ではありません。つまり聖書がどう言っているかでなく、教会がそれを必要としているから、という話なのです。

 そういうことをちゃんと理解しているなら、あとは個人個人の選択だと私は思います。什一献金を払うのが信仰だと思う人はそうしたらいいです。他者にその価値観を押し付けない限りは。

賢さとは・・・

 また話を戻します。
 コインチェックの事件をキッカケに、「仮想通貨はダメだ」「ビットコインは危ない」という声が大きくなっていますけれど、コインチェック自体は被害者であり、何もクライアントを騙そうとしたわけではない、という点は忘れてはならないと思います。

 それより、ブロガーのちきりんさんも言っていますが、破綻を知りながらクライアントからお金だけ騙し取った「てるみクラブ」とか「はれのひ」とかの方が、よっぽど悪意があって危険だと私も思います。企業倫理がどうかしてしまっているのではないでしょうか。その意味では予約先行、先払いの商品には今後とも注意が必要ですね。
 そのあたりも「賢さ」の1つだと、私は思います。