映画のワンシーンに見る「キリスト教」の歪み

2016年11月11日金曜日

クリスチャンと「常識」

t f B! P L
■映画における「キリスト教」

 一般の映画で、時々「キリスト教」が描かれることがある。
 いわゆるクリスチャン映画でない、娯楽映画でである。キリスト教を中心テーマにした娯楽映画ならもちろんだけれど、そうでないものでも部分的にキリスト教(教会やクリスチャン)が登場するものがある。

 と言っても、キリスト教が登場する映画全般の話をここでするのは大変なので、ごく一部に絞る。

 いくつかのアメリカ映画で、アメリカの原理主義的教会(あるいはクリスチャン)の様子がチラッと描かれている。ごく短いシーンだけれど、大変興味深いので紹介したい。
 一本は2015年の『キングスマン』で、もう一本は2012年の『フライト』。それぞれの「キリスト教シーン」を、簡単に紹介してみる。

『キングスマン』
 悪役ヴァレンタインは、人々が凶暴化して互いに殺し合うようになる信号を発信し、世界人口を減らそうとする。その実験場所にケンタッキー州のサウスグレード教会が選ばれ、礼拝説教の最中に、信号が発信される。
 その礼拝説教というのが、「America is doomed(アメリカは滅びる)」
 牧師「エイズや洪水で人々が死ぬのは神の怒りだ!」
 牧師「腐りきった政府は同性愛や離婚や中絶を認めている。それはキリストに背く者の仕業だ!」
 牧師「ユダヤ人も黒人も同性愛者も地獄の炎で永遠に焼かれるのだ!」
 信徒らはそうだそうだと熱狂しながら聴いている。
 ある信徒のセリフはこう。「悪魔を信じる者は血の池で溺れろ!」

『フライト』
 飛行中の旅客機が突然故障して急降下する。機長(主人公)の機転で奇跡的な胴体着陸が成功し、乗客102名のうち96名が生還した。副機長は両脚を失ったが、一命をとりとめた。副機長と奥さんは敬虔なクリスチャンである。機長が彼の病室を見舞う。
副機長「事故は運命です。主の裁きです」
奥さん「主をたたえよ」
機長、無言。
副機長「事故は悲劇ですが、祝福でもあります。主の計画に間違いはありません」
奥さん「イエス様をたたえよ」
機長、無言。
副機長「機長、共に祈りましょう」
機長、無言。

 ごく短いシーンだし、文字を起こしただけだからわかりにくいかもしれないけれど、どちらもクリスチャンを「変な人たち」として描いている。もちろん映画的にわかりやすく(端的に)表現しているというのもあるだろう。しかし私が知る限り、どちらもかなりリアルに近い。あまり脚色とか演出とかいう感じがしない。実際にいそうな人たちである(この日本でも同様にいそう)。

 これは何を意味しているかというと、一般人から見て「クリスチャン=変人」ということだ。もちろん教団教派の違いがあり、すべてのキリスト教徒が変人扱いされている訳ではないと思う。ただ『キングスマン』で言えば福音派、『フライト』で言えばペンテコステ派の人たちは、あきらかに「理解できないおかしな人たち」として表現されている。制作側もそう意図している(に違いない)。

 それを聞いて、福音派やペンテコステ派の人たちはどう反応するだろうか。「彼らは真実がわかってないんだ」と言うだろうか。「彼らは霊の目が開かれていないんだ」と言うだろうか。まあ上目線にいろいろ言えるだろう。

 ただ、一つ忘れてはいけないのは、「彼ら」一般人は自分たちが福音を伝えるべき相手である、という動かない事実だ。変な言い方だけれど、彼ら一般人はクリスチャンのマーケティングの対象なのである。その対象者から「変人」と思われている事実は、真摯に受け止めなければならないのではないか。

 伝道をサラリーマンの営業と置き換えて考えると、わかりやすいかもしれない。
 営業を成功させるためには、まずターゲットとする顧客の年齢層やニーズを知り、そのニーズを満たすような商品をうまく紹介し、最終的に買ってもらえるように、いろいろ努力しなければならない。また仮に商品がとっても魅力的で、放っておいてもどんどん売れるようなものだとしても、それを売る人間が「変人」であってはならない。営業とは商品だけでなく、それを売るのがどんな人間かというのも大事な要因だからだ。

 であるなら、伝道の成功を望むなら、やはり相手から見て「変人」であってはならない。百歩譲って「変人」だとしても、少なくとも「信頼される変人」でなければならない。信頼関係のないところに、福音伝道などあり得ないからだ。
 自分が福音を聞いて信じた時のことを考えてみればわかるだろう。話している相手を怪しく思いながらも福音だけは信じた、という人がいるだろうか。信じたとき、少なくとも相手が信頼に足る人物に見えていたはずだ。

■上目線に伝道?

 原理主義的なクリスチャンで、上目線な発言を繰り返す人が少なからずいるけれど、私はいつも不思議に思う。そんな態度で、いったいどうやって未信者に伝道するんだろう? いったい誰が耳を傾けるんだろう? と。

 あるカルトっぽい牧師はまさにこれである。彼は未信者のことを「ノンクリなんてバカ」と平然と言い放ち、見下していた。彼の教会は最高で百人規模に成長したけれど、未信者から「救われた」という信徒はほとんどいなかった。ほとんどが他教会から流れてきたクリスチャンだった。だから伝道効率で言えば限りなくゼロ。クリスチャンたちを集めて奉仕に駆り立てるだけで、伝道なんてほとんどできていなかった。

 それもそのはずだと思う。たとえ未信者に面と向かって「バカ」と言わなくても、普段の教会内での態度が滲み出て伝わるのだろう。未信者からしたら「何コイツ、偉そうに」となるんだと思う。

『キングスマン』の牧師にしてもそうだ。「ユダヤ人と黒人と同性愛者は地獄の炎で焼かれろ」なんて平然と言ってしまう人を信用する未信者なんている訳がない。仮にいたとしても例外中の例外のはずだ。自分たちが何をすべきなのか、何をしているのか、よくよく考えてみなければならないと思う。

■愛の実践とは

 ここで紹介したいのがこの記事。
アメリカが地獄へ行った時」 (ケン・フォーセットさんのブログ)
 とても興味深いので、時間のある方はじっくり読んでほしい。

 私が特に感銘を受けたのは「ハックルベリーフィンの冒険」の話。ハックは逃亡奴隷のジムを匿ったことを後悔する。奴隷を匿うのは罪であり、「自分は地獄に堕ちる」と考えたからだ。ハックは悩んだ末、ジムの居場所を暴露しようと考える。そして「これで天国に行ける」と安心する。つまり奴隷であり友人であるジムを裏切って売り飛ばすことが「神の御心」だと信じていた。教会でそう教えられていたからだ。しかしジムを目の前にして、やはり「裏切れない」とハックは思う。そして「分かった。俺は地獄へ行く」と決心する。という話。

 つまり愛を実践することより、自分たちの生活や権利を守ることが、当時のキリスト教信仰となっていたのである。友人を愛して守ることが「罪」であり、それを裏切って売り飛ばすことが「正義」だったのである。これは19世紀のアメリカの話だけれど、現代もそう変わっていない。先の牧師の言を借りれば、ユダヤ人や黒人や同性愛者を迫害することこそ「正義」となってしまっている。

 教会(あるいはクリスチャン)の使命とは何なのかと考えさせられる。愛を実践するとは何なのか。キリストの教えを行うとは何なのか。これを読んで下さった皆さんはどう考えるだろうか。

QooQ