カルトっぽい教会の特徴と、ハマりやすい人の特徴

2016年9月29日木曜日

カルト問題

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 カルトっぽい教会についていつも書いているけれど、ここらで一旦、まとめ的に書いてみる。カルトっぽい教会にどんな特徴があるのか。そしてそれにハマってしまう人たちにどんな特徴があるのか。
 もちろん、これに当てはまるからカルトっぽい教会だとか、ハマりやすい人だとか断言することはできない。いろいろな教会の在り方があるだろう。けれどこれらに当てはまりつつ、かつカルトっぽくない教会というのは、私にはどうも想像できない。
 何かの参考になれば幸いである。

■カルトっぽい教会の特徴(5つ)

・自分たちこそ正しい

 自分たちの聖書解釈、聖書理解、信仰の在り方、考え方、やり方こそが絶対的な真理であり、絶対的に正しいと思っている。表立って言わないけれど、他教会(特に他教派)を「格下」だと考えている。あるいは「あの人たちは真理がわかってないから」と同情的に見ている。自分たちと同系統の教会でさえ、「あの人たちはあの人たちなりに頑張ってるから」と妙な上目線で評価している。

 そんな自分たちの在り方が否定されると、激しく怒って反論したり、「下がれ、サタン!」と悪魔呼ばわりしたり、「霊の目が開かれていないから仕方がない」と言ったりする。ちなみに彼らのその怒りは「義憤」であり、「神の聖なる怒り」を代弁しているんだそうだ。つまり話し合いの余地はない。

・聖書を「字義通り」実行しなければならない

「聖書に書いてある通りに生きて何が悪いんですか?」とか言われそうだけど、彼らの「字義通り」はおおむね選択的である。たとえば「妻に辛く当たってはいけない」と書いてあるけれど、粗相した妻に激しく罵声を浴びせて平然としている牧師がいる。あるいは「受けるより与えるほうが幸いである」とも書いてあるけれど、いかに自分が受けるか、祝福されるか、恵まれるか、他の人より優位に立っているか、みたいなことばかり気にしている人たちがいる。そのくせ「聖書に100%従います」とか「イエス様100%、自分0%」とか訳のわからない標語を掲げたがる。彼らの「字義通り」は「選択的字義通り」である。

・過度な従順を求める

 弟子たちがキリストに従順だった箇所を引き合いに出して、「だから信徒は牧師に従わなければならない」とか「従うことが祝福だ」とか「不本意でも従うことで霊的に成長する」とか、それらしいことを言う。そして信徒に過度な従順を求める。その時も「これは私(牧師)の願いではない。主の願いだ」とか言って、責任を神になすりつけるのを忘れない。

・(結果的に)情報をコントロールする

 他教会に行ったり、そこの信徒と話したり、あるいはキリスト教書店に並ぶ信仰書を読んだりすると、「良くない影響を受ける」とする。自分たちは真理を知っているけれど、他の教会や牧師やクリスチャンはそうではないから、極力接触は避けた方がいい、そうでないと祝福から漏れてしまう、せっかく主からいただいた純粋さを失ってしまう、とする。まして「この世」の情報、テレビとか雑誌とか映画とかネットとか、そういうのは「汚れているからダメだ」となる。
 結果、信徒は自分の教会の中でしか生きられなくなる。教会に籠って聖書を読み、祈り、牧師の話を聞いていればそれで「霊的」だと教えられる。結果、「ひきこもりクリスチャン」になる。

・(結果的に)選択の幅がない

「あなた方は自由なのです」とまず強調しておいてから、〇〇は祝福でない、△△は喜ばれない、××は信仰を妥協することになる、とイロイロ言って、結局信徒に一つの道しか選べなくさせる。結果的に選択の自由を奪っている。
 たとえば会社から転勤の辞令を受け、引っ越して教会を変えなければならなくなると、「その辞令は悪魔の策略だ。この教会こそあなたが植えられた教会なのだ。離れたら祝福を逃して大変なことになる。それが悪魔の狙いだ」とか言ってくる。
 結果、真面目な人は退職し、新しく職探しをすることになる。

 では続いて、カルトっぽい教会にハマりやすい人の特徴を挙げてみる。もちろんケースバイケースな部分もあるから、これらの人たちが必ずしもカルトっぽい教会にハマってしまうとは限らない。でも、注意して損はないのは間違いない。

■カルトっぽい教会にハマりやすい人(4つ)

・スピリチュアルなものに弱い

 教会で語られる「霊的」なことに過度に魅力を感じる。そして奇蹟や癒し、神秘的体験、熱く盛り上がる賛美、意味深な聖書箇所、夜遅くの集会、イスラエル関連の話、「聖霊」に関する体験談、「奥義」や「真理」や「霊的覚醒」といったワード、などに目を輝かせる。だから何か特別なことが起こるのをいつも期待していて、時に「こんなことが起こった」とやや捏造ぎみに語る。


・思い込みが激しい

「こんな気がする」「(自分が)こう感じる」というのを簡単に「神様からだ」と思い込む。そして訂正できず突っ走る。
 また牧師やリーダーの「良い面」だけに注目し、彼らを過度に神聖視し、批判的な視点を持つことができない。それを指摘されると、「牧師先生だって人間なのですよっ!」と怒り出す(そう言う自分自身の矛盾に気づかない)。牧師が明らかな不正を犯した時、彼らのような人間が、牧師の擁護に回る。

・他者に依存的(自分で決められない)

 自分に自信がなく、物事をはっきりと判断するのが苦手。自分自身のことでも自信をもって決められない。だから他者、とくに牧師などの権威者から「あなたには〇〇という賜物がある。その道に進みなさい」とか言われると、本気にしてしまう。結果、どんなことでも牧師やリーダーに言われたままの、「指示待ちクリスチャン」になる。

・地味で時間のかかる熟慮より、簡単でドラマチックなことが好き

 それって本当にそうなんですか? と考えたり吟味したり調べたりするのを、悪いことのように考える。あるいはそこまで深く考えるのが面倒だと思う。それより礼拝の中で語られるドラマチックな物語や、賛美や祈りが感動的に展開するのを好む。笑って泣けて感動できたら「今日の礼拝とっても恵まれました!」となる。だからオーソドックスな教会の「何も起こらない礼拝」の話を聞くと、「そんなの死んだ信仰だよ」とバッサリ。

 以上である。
 笑えない話だけれど、これらの人たちはカルトっぽい教会から脱会しても、また同じような教会にハマってしまう恐れがある。自分では気をつけているつもりが、結果的にカルトからカルトへ渡り歩いていた、という話は少なくない。それはもちろん教会なり牧師なりが悪いんだけど、それにハマりやすい傾向みたいなものはありそうなので、十分に気をつけてもらいたいと思う。
 もっとも、何をどう気を付けたらいいのかってのがまた難しい話なんだけど。

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