「繁栄の神学」を反面教師として、クリスチャンとしてどう生きるべきか考え て みた。

2016年3月26日土曜日

繁栄の神学の問題

t f B! P L
 また「繁栄の神学」について。

 私が知っている一部の系統の教会群では、「繁栄の神学」が隅々まで蔓延している。「繁栄の神学」とは呼ばれておらず、そんな言葉さえ知られていないけれど、信徒の考え方が「繁栄の神学」そのものになっている。

  彼らは「神が祝福して下さる」と信じている。その通り。神様は祝福しておられる。しかし彼らはその「祝福」を、「経済的繁栄」や「成功」や「地位」や「名誉」と考えている。もちろん「祝福」にはそれらも含まれているだろう。しかしそれらが全てではないし、それらは「祝福」と完全にイコールではない。ということを彼らは教えられていない。

 あるいは彼らは、「祝福」を「霊的祝福」と信じている。だから「物質的なものが全てではない」とも言う。つまり経済的に祝福されていなくても、神に祝福されている、と信じている。その通り。しかし同時に彼らが信じているのは、「霊的に祝福されるなら物質的にも祝福されて然るべきだ」ということ。だから、

礼拝を守って、熱心に賛美して、真剣に祈って、沢山奉仕すれば、

「霊的に」祝福される。すると、

物質的な必要も満たされる。不足して困ることがない。だから、

我々は霊的にも物質的にも繁栄する。

 という思考の流れになる。それを支持する聖句、たとえば詩篇23篇とかでガッチリ補強される。だから結局のところ、彼らにとって「祝福」とは「物質的繁栄」ってことになる。途中に「霊的祝福」が挟まっているから見えづらいけれど、要はそういうこと。

 その背景には、「神に熱心に仕える聖徒が恥を見るはずがない」みたいな考え方がある。まあ信徒はそう教えられているのだから仕方がない。 「クリスチャンはこの世にあってハイレベルな存在でなければならない」と言う牧師もいる。その「ハイレベル」が道徳的な意味合いなら良いのだけれど、それはえてして教会堂の規模とか車のランクとか牧師館の大きさとか、着ているスーツとか使っているパソコンとか目新しい形の名刺とか、そういう意味合いである。だから信徒もそういう意味合いの「ハイレベル」を目指すようになる。「ハイレベルなクリスチャン」とはそういうものだと思い込むようになる。

 彼らは聖書を熱心に読む。バイブルスタディ―と言って研究する。毎朝「ディボーション」をして、「朝から御言葉でチャージされて幸せ」とか言う。けれど読んでいるものの意味を履き違えている可能性について、吟味することができない。

 たとえばヨハネの福音書16章33節でキリストはこう言っている。「この世には患難があるけど勇敢でいなさい。私は世に勝ったから」
 これを読んで、彼らはこう解釈する。「じゃあ我々はあらゆる患難に勝てる」「患難に勝って祝福を受けることができる」
 ちなみにこの「祝福」とは前述の通り、物質的繁栄のこと。

 だから試練に遭っても「必ず」繁栄できるはずだと、彼らは考えている。すると、繁栄していないのは問題アリってことになる。何か罪があるんだ、問題があるんだ、ちゃんと赦されていないんだ、だから繁栄しないんだ、みたいな話。その見方は自分たち自身にも適用されるから、なかなか大変なことなのだけれど。

 でも前述の聖句の通り、私たちは生きていくうえで、沢山の患難を経験する。うまくいくことばかりじゃない。むしろ苦しんだり葛藤したりするのが日常的で、心から笑えない時もある。そしてそれらの多くは祈ったから、礼拝したから、奉仕したから解決する訳ではない(そもそもそういう目的で礼拝や祈りがあるのではない)。

  キリストが言う「私は世に勝った」は、いわゆる一般的な意味での「勝利」だろうか。キリストはリッチな生活を送っただろうか。良い住まいに住んで休日に死海でクルージングとかしただろうか。ローマ帝国に反旗を翻す革命のシンボルあるいは戦う英雄だっただろうか。どれも否だ。キリストの言う「勝利」とは、一般的な意味での成功とか繁栄とか、取得とか所有とかではない。それは見えるところで言えば「十字架刑」を意味している。つまり(あくまで一般的な意味で言えば)死とか敗北とか喪失とかを意味している。

 別の箇所には、「私たちはキリストの苦しみの欠けたところを満たす」(コロサイ1章24節)という表現もある。つまり、私たちは決して苦しまないなんて聖書は言ってない。必ず繁栄するとも言ってない。だからそういうのを全部無視して「信じる者は繁栄する」と主張するのは、聖書に反している。聖書を信じると言いながら。

 では私たちは苦しむべきか、繁栄を求めていはいけないのか、と言うと、それもまた極端な話。私たちには苦しみもあるだろう。でも楽しいこともあるだろう。繁栄する時期もあるかもしれないし、貧しい時もあるかもしれない。
 キリストもその人生の全てが苦渋に満ちた暗いものではなかったはずで、時には弟子たちと食事して笑ったり、子供たちと戯れたりしたこともあったと思う。もちろん詳しくはわからないけれど、30年ちょっとの人生を、いつも眉間にシワを寄せて過ごしたはずはないだろう。

 キリスト教の実践、キリストの言葉の実践は、クリスチャンにとって生き方、あるいはライフスタイルみたいなものであって、何かを得るための手段ではない。私たちはキリストに倣って他者を愛そうとし、キリストに倣って他者を赦そうとする。その結果何かが欲しいという話にはならない。しかしそれが実は繁栄のためであるなら、キリスト教でなく「繁栄の神学」を実践しているに過ぎない。

 だからクリスチャンにとって大切なのは、行動以上にその動機なんだと思う。

 今日礼拝するのは、何の為なのか。この祈りは、本当は何を求めているのか。賛美をすることが、自分の満足になっていないか。

 もしそれらが自分の自然なライフスタイルであって、何の見返りもご褒美も求めていない行為ならば、そもそも繁栄とか奇蹟とか癒しとか、そういうことを第一義的に考えはしないだろう。「あなたを礼拝します」で満足であって、「だから◯◯して下さい」とは続かないはずだ(もちろん何かを求めてはいけないという話ではない)。

 キリスト教の本質は、神に何かを求めることでなく、神に何かを捧げることだと思う。捧げると言っても多額の献金とか重労働とかじゃなくて、たとえば礼拝のための時間とか、祈るための心とか、知り合いにする親切とか、困っている誰かを助ける行為とか、そういうことなんだけど。
 そうではないだろうか。

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