2015年10月21日水曜日

クリスチャンが教会に定着できない(しない)理由について考えてみた・その5

 クリスチャンが教会に定着できない(しない)理由について、シリーズで書いてきた。今回で一応最終回。
 これまではその理由について個別に書いてきたけれど、今回はまとめとして書きたい。

 バックナンバーはこちら。
・4回目

 そもそも私がこのシリーズを書き始めたのは、某教会ブログの記事を見たのがキッカケだ。
「教会生活をしっくりさせたい」「クリスチャンを教会に定着させたい」という趣旨の記事だけれど、その解決方法としてこんなことを言っている。
「自分自身を忘れてキリストだけになれば、教会に仕えられるようになる」

 頭の中がキリストでいっぱいになれば自分のことを考えなくなるし、そうすれば教会内で他者に仕えられるようになるから、結果として教会が結束する、というような理屈。つまり「自分を捨ててキリストに従え」ということで、聖書にもそういう意味の言葉があるし、一応筋が通っているような気がする。熱心なクリスチャンなら威勢よく「アーメン」とか言いそうだ。

  でもこの「自分を捨ててキリストに従う」という話、従う相手はあくまでキリストであって、教会ではない。そのへんの混同があるように思う。もちろんキリストに仕えることは、教会に仕えることと重なる部分もあるだろう。けれどイコールではない。キリストと教会とは別々の存在であって、たとえ密接な関係だとしても、分けて考えるべきだ。
 だから「キリストで頭がいっぱいになれば自分を忘れて教会に仕えられる」というのは、たとえば「ソバのことで頭がいっぱいになれば自分の好みを忘れてウドンを食べたくなる」みたいに言うのと同じで、だいぶトンチンカンである。繋がっていないものを、ドサクサまぎれに繋げている。
 つまり、

 自分を捨ててキリストに従う≠教会に仕える

 でもこういう論理に欠いた主張をする教会はある(主に聖霊派であろう)。「自分を捨ててキリストに従うのが最善の道です。だから自分を無にして教会に仕えなさい。それが祝福です」みたいなことを平然と言う。要は、教会にとって役立つ信徒を沢山作りたいのだ。彼らがほしいのはキリストの弟子でなく、教会の労働者。それも文句を言わない無給の奉公人。

 誤解のないように書いておくと、教会に仕えること自体は全然悪いことではない。むしろクリスチャンとして推奨されることだと思う。問題は「どう仕えるか」の部分にある。そして多くの場合、「自分を捨てて・・・」の段階で、捨てすぎてしまっている。つまり自分の自我まで捨てて、なんでもハイハイ言われるままに働いてしまっている。

 それは指導者に言わせれば「完全なる従順」という美徳なのだろうけれど、正確なところは「言いなり」だ。「とにかくこれをやれ。お前は考えなくていい。神からのオーダーなのだから、何も言わずにやれ」みたいなことを言われたり暗に言われたりして、教会に仕えている人たちがいる。彼らは「自分を捨ててキリストに従っている」つもりだけれど、実は違う。自分が誰かを見失い、ロボットみたいになって、牧師のために働いているだけだ。

 つまり「自分を捨てる」とは、自分の自我まで捨てることではない。自分自身の意思や考え、価値基準や道徳基準はしっかり持っていないといけない。自分が誰でどんなことを考えていて、何を望んでいるのか、そういうことに正直に取り組んでいないと、そもそも「自分を捨てる」ことができない。捨てるべきものが何なんか、自分でもわからないからだ。

 だからもし「教会に仕える」としても、何でもハイハイ言って牧師に従うのではない。それに対して自分はどう思うのか、同意できるのかできないのか、できないなら何故できないのか、そのへんをよく考えたり話し合ったりするべきだ。そういうプロセスを全部すっ飛ばして「従います」というのは「従順」でなく「言いなり」でしかない。「謙遜」でなく「無思考」でしかない。そういう話し合いに応じない牧師に、信徒に対する愛はない。

 単に信徒を使い倒したいだけの牧師や指導者からしたら、自分の意見をぶつけてくる信徒は面倒くさい。つべこべ言わずに言う通りにやれ、というのが彼らの本音だからだ。だからそういう「言いなり信徒」を沢山作りたくて、上述の「自分を捨てて教会に仕えなさい」を持ち出す。

 という訳で、無条件従順の奉仕を要求してくる教会には注意が必要だ。そういう教会に定着してはいけない。もし定着して奉仕してしまうと、はじめは良くても、やがて消耗品のように扱われていることに気付く時がくる。でも時すでに遅しだ。そうならないようにこのシリーズを書いてみた。聞く耳のある人には聞いてほしいと思う。

1 件のコメント:

  1. 麻原彰晃が卒業文集に「ロボット帝国を作りたい」と書いたのをふと思い出してしまいました。
    このような考えの聖職者によって運営される教会では、信者はまるで従順な飼い犬のようになってしまいます。
    「お手」・・・手を出す
    「おかわり」・・・もう片方の手を出す
    「ちんちん」・・・立つ
    「ふせ」・・・布施をする
    新興宗教系プロテスタントの聖職者は人間は神から自由意思を与えられているというキリスト教の基本をわかっていないか、知っていてもこの基本は都合が悪いので無視しているのです。
    「自分を捨ててキリストに従う」というセリフほど胡散臭いものはありません。信者の中には会社を辞めたり、全財産を献納したり、中には家族を捨てたという人すらいます(新興宗教系プロテスタントではものみの塔聖書冊子協会のように、宗教が原因で信者が離婚をしたという話がよく聞かれます)。
    しかし聖職者の側はどうなのでしょうか?麻原彰晃は家族を捨てていませんでした。信者には家族を捨てさせているというのにです。信者はまずいオウム食を一日一食だったのですが、麻原は家族とファミリーレストランでエビフライやカレーライスを食べていました。
    これと同じではないのでしょうか?聖職者の中に家族を捨てた人はいません。アメリカにお留学した子供の顔を見に行くといって、年に一度は海外旅行をしています。(自分の財産をしっかり保持しますので、往復の旅費だけではなく滞在費もすべて教会もちです。)
    聖職者が麻原彰晃と同じで自分を捨てることはなく全部持っている状態なのです。でも信者には「お前たちは何一つ持つな。全部捨てろ」というのです。こんな理不尽がまかり通ってしまうのが、新興宗教系プロテスタントというものなのです。

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