クリスチャンが教会に定着できない(しない)理由について考えてみた・その2

2015年10月7日水曜日

教会生活あれこれ

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 前回に続いて、クリスチャンが教会に定着できない(しない)理由について。2回目。
 私が勝手に想像する、クリスチャンが教会に定着できない理由は次のようなもの(再掲)。

①奉仕を求められるのが苦痛
②毎回献金しなければならないから
③時間的にも人情的にも拘束されるから
④牧師とうまくやれないから
⑤教会の雰囲気が合わないから
⑥正直つまらないから

 ①と②について前回書いたので、今回は③から。

③時間的にも人情的にも拘束されるから

  これは、一信徒が教会活動にどれくらい関わるか、という話でもある。日曜の礼拝だけ出席すればいい、という人は礼拝時間に教会に行って、終わったらサクッと帰る。あるいはもうちょっと関わりたい、という人は礼拝後に残って何かの活動をする(食事とか「交わり」とか、掃除とか聖書勉強とか)。または水曜の「祈祷会」にも出たいとか、いわゆるスモールグループに出たいとか、その他の活動にも関わりたいとか、いろいろあると思う。
 要は教会に関わりたい度合いに応じて関わっていけばいいのだと思う。けれど、これまた思い通りにいかない面がある。

 たとえば礼拝時間がすごく長い、という教会がある。私が知っている例で言うと、3~4時間は当たり前に礼拝する教会がある。長い時は5時間でも6時間でも続く。その教会の特徴として、牧師の話が長いというのがある。説教はもちろん、献金の前後でいろいろ話し、賛美の前後でいろいろ話し、祈りの前後でいろいろ話し、雑談でいろいろ話す。信徒は気づくと何時間も牧師の話を聞かされることになる。

 まあ単立の自営業教会だと牧師が好き放題やれるので、そういうことにもなる。礼拝は一時間以内におさめようとか、オーバーしないように頑張ろうとか、そういう配慮はまったくない。それより「今このことを語らなければならないから」みたいな変な使命感があって、牧師は延々としゃべり続ける。

 またある教会は賛美がすごく長い。平気で1時間は歌い続ける。合間に「霊歌」とか「フリーワーシップ」とかいう時間があって、それぞれ「異言モドキ」で歌ったり、自分の高ぶる気持ちを即興の詩にして歌ったり、祈ったり、聖書を読んだり、とにかく「霊的」な感じで自由に過ごす(それが本当に「霊的」かどうかはまた別の話)。

 いずれにせよ、礼拝が長い教会の言い分は、「それが聖霊の流れだから」だ。聖霊の流れと導きに逆らってはいけない、導かれるままに礼拝するのが真の礼拝だ、だから時間なんか気にしてはいけない、天国では永遠に礼拝し続けるんだから3時間くらい何だ、という訳だ。

 その言い分が正しいかどうかは全然別の話だけれど、とにかくそういった理由で彼らは「超長時間礼拝」を捧げている(繰り返すけれど、それが本当に「霊的」なのかどうかは別の話)。
 だから必然的に拘束時間が長くなる。日曜は半日丸々とられることもある。それが耐えられないという人は当然そういう教会には定着できない。

 また日本人的な「義理人情」の精神が関係していると思うけれど、教会というコミュニティに属すれば属するほど、そこの人間関係に縛られていくというのがある。もちろん教会に限ったことではないけれど。

 そのコミュニティに属する者として、礼拝以外の活動、たとえば伝道とかボランティアとか各種イベントとかに動員され、信仰的というより人情的に断れない(断りづらい)状況になる。だから本心としては嫌なのだけれど、そういう活動に従事することになる。でも好き好んでやっている訳ではないから、いつかどこかに歪みが生じる。少なくともそれが信仰につながることはない。

 また義理人情のゆえに上記のような「超長時間礼拝」に付き合わされることもあり、もうそうなると礼拝というより拷問である。

 要は、傍から見ると「信仰的」なのだけれど、その動機が「人付きあいの一環」になっている。多くの教会活動、多くの信徒にその可能性がある。もちろん全部が全部そうとは言わないけれど、そういうことは少なくないように思う。

 というわけで続きは次回に。

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