クリスチャンが教会に定着できない(しない)理由について考えてみた・その3

2015年10月12日月曜日

教会生活あれこれ

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 クリスチャンが教会に定着できない(しない)理由について、シリーズで書いている。今回は3回目。

 バックナンバーはこちらから。
・1回目
・2回目


 私が勝手に想像する、クリスチャンが教会に定着できない理由は、次のようなもの(再掲)。

①奉仕を求められるのが苦痛
②毎回献金しなければならないから
③時間的にも人情的にも拘束されるから
④牧師とうまくやれないから
⑤教会の雰囲気が合わないから
⑥正直つまらないから

 今回は④について考えてみたい。

④牧師とうまくやれないから

 クリスチャンがプロテスタント教会を探す時、たぶん条件として上がるのは自宅から通えるかとか、礼拝の時間帯が自分の生活に合うか、雰囲気が合うか、牧師がどんな人か、みたいなことであろう。中でも一番重視されるのは「牧師がどんな人か」だと私は思う。

 教団教派によってイロイロかもしれないけれど、信徒にとって牧師とは、たとえれば学校の担任教師とか、会社の上司とか、サークルのリーダーとか、そういう存在に近いと思う。だからその教会での生活を考えた時、牧師とどういう関係にあるかは、すごく重要になる。あるいは信徒本人はそういうことをあまり気にしていないかもしれないし、牧師とあんまり関わる機会がないから関係ないと思っているかもしれないけれど、実はすごく影響を受けている。なぜなら(プロテスタントの場合)その教会の雰囲気とか信徒の雰囲気とかは、その牧師の影響がそのまま出るからだ(牧師の権限が少ない教会はそうでないかもしれないけれど、そういう教会は少ないと思う)。
 だからある教会を知るには、その牧師を知るのが一番、みたいなところがある。

 たとえばやり手のビジネスマンみたいな牧師の場合、その教会生活はだいたい忙しくなる。活動が多くてノンビリできない。ミスに対して厳しくされ、礼拝出席率とかその他の集まりの出席率とかも重視される。 つまり「何をしているか」「何ができるか」で信徒が評価される雰囲気がある。
 それに対して牧師本人がノンビリしている場合、教会全体もノンビリゆったりした雰囲気になりやすい。信徒間の「交わり」が多くて、奉仕は少ない。ちょっと大学の気楽なサークルみたいな雰囲気がある。

 それらは極端な例だけれど、どちらが良いとは一概に言えない。前者を充実したクリスチャンライフと捉え、後者を物足りないと捉えることもできる。前者を規律と捉え、後者を奔放と捉えることもできる。ただ一つハッキリ言えるのは、前者の信徒は「少しノンビリしたい」と思うようになり、後者の信徒は「何かやってみたい」と思うようになるということだ。つまり隣の芝生は青い。
 どちらも一長一短ある訳だ。

 けれど私の経験から言うと、ノンビリした牧師の教会の方が信徒の定着率は高い(統計データでなく私の感覚で申し訳ない)。忙しい牧師の教会は活動が多い分、人もたくさん集まりやすいけれど、出ていく人も多い。結果定着する人は少なくて、いつも一定の割合を新来者が占めることになる。
 これも一概に言えないけれど、ノンビリ牧師は信徒の「人」を見て、ビジネスマン牧師は信徒の「能力」を見る。口で何と言っても結果的にそうなっていることが多い。

 そしてその見方はそのまま牧師自身にも適用される。つまりその牧師は「能力の高い牧師」なのか、それとも「人格者の牧師」なのか、だ。 日本中、というよりたぶん世界中の牧師がこのどちらかに入る。「能力」と「人格」の両方を備えている牧師が一番いいのだろうけれど、私は見たことがない。「能力があって人格者でもある牧師」というのは、私の知る限り「能力の高い牧師」だ。能力で人格面をカバーしようとしている。


 で、能力牧師と人格牧師でどちらがより信徒とうまくやれるかは、言うまでもない。人格牧師だ。能力牧師はどうしても「やること」に視点があって、突き詰めて考えていくと、1人の信徒を大事にできない。大事にできるのは能力がある信徒とか、何かメリットをもたらしてくれる信徒とかであって、そうでない信徒を最終的には大事にすることができない。

 そして、これまた統計データはないけれど、日本には能力牧師が多くて人格牧師が少ない気がする。私の気のせいだろうか。けれどそれが事実だとしたら、日本のクリスチャンの「牧師とうまくやれない」率は高いはずだ。皆さんはどう思われるだろうか。

・余談:牧師との相性

 牧師と信徒の関係とは、単に相性が良ければいいというものでもないと思う。もちろん相性が良ければ楽しくできるかもしれないし、いろいろ面倒みてもらえて助かるかもしれない。良い奉仕(?)に付けるかもしれない。けれど牧師と相性が良いから良いクリスチャンになれるかと言うと、そこは全然関係ない。というかむしろ、私の経験で言えば、牧師と相性が良い信徒はロクなクリスチャンにならない(あ、言っちゃった)。

 もっとも、そこは何をもって「良いクリスチャン」とするかの話にもなるけれど。

 もちろん全員が全員だと断定するつもりはなく、何にでも例外はあると思うけれど、牧師と仲良くなってしまうと、信徒は相対的に神様のことを考えにくくなる。あるいは考えているつもりでも、「牧師を通した神様像」とか「牧師の解釈にのっかった神様像」とかを拝んでいるに過ぎなくなる。自分で聖書を読んでいるつもりが、いつの間にか、牧師の言う通りに読んでいる、ということがある。

 たとえば初心者のクリスチャンであれば聖書の「せ」の字も知らない訳で、だから基本的な部分は、ほとんど全部牧師から教えてもらうことになる。すると牧師の言葉を100%正しいと考えるようになる。教師の言葉をハナから疑って授業を受ける生徒がいないのと同じだ。それに加えてそこに「牧師との親しさ」があると、ますます牧師の言葉を鵜呑みにしてしまう。

「でも、その牧師の話が正しいなら問題ないじゃない」という反論があるかもしれない。
 けれど聖書解釈はすごく沢山ある訳で、どれが唯一正しいとは誰にも言えない(神様は多様性を良しとしておられるのであって、それでいいのだと私は考えている)。なのに、どんな解釈であれ、牧師の話を鵜呑みにしてしまう時点で、そういう多様性を排除してしまっている。自分の頭で考えて「これは本当に正しいのか」と悩むプロセスがなくて、沢山ある中の一つだけを、根拠もなく、既に選んでしまっている。

 そういうのは「言いなりクリスチャン」であって、少なくとも良いクリスチャンではない。良いクリスチャンの最低条件は「ちゃんと自分で考える」ことだと私は勝手に決めている。

 それに、鵜呑みにした聖書解釈が、たとえばカルト的、律法主義的、ご利益主義的だったとしたら、どうだろうか。その信徒の先行きは決して明るくない。

 だから牧師と不仲になれとは言わないけれど、不必要に仲良くしすぎるべきではないと私は思う。
 でもたぶんマトモな牧師ならそういうことはわかっていて、だから特定の信徒と仲良くするとか、ある信徒を無視するとかいうことはないだろう。だから信徒との距離感をどうとるかも牧師の大事な資質の一つだと私は思う。

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