神様は信じているけれど教会には行かない、あるいは特定の教会に定着しない、というクリスチャンは少なくないようだ。
統計データはないけれど、身近なところを見てもそう感じる。彼らは「根なしクリスチャン」とか「流浪のクリスチャン」とかネガティブなイメージで言われることがあり、私も以前は同じように見ていたけれど、今は違う。彼らがそういう状況になっている原因は彼ら自身の問題というより、むしろ教会の方の問題が大きいと思うようになったからだ。
もちろん人は様々なので、一個人の問題として教会に行けない・定着できないというケースはあるだろう。けれど同時に、教会の方に問題があって、ある種の人たちを定着させなくしている、というケースもあるだろう。だから教会に行けない・定着できないクリスチャンを否定的にとらえるなら、教会の方だって否定的にとらえなければならない。それがフェアというものだろう。
これまた統計データはなく、体験的・感覚的にしか言えないけれど、教会に定着できない理由は次のようなものだと思う。
①奉仕を求められるのが苦痛
②毎回献金しなければならないから
③時間的にも人情的にも拘束されるから
④牧師とうまくやれないから
⑤教会の雰囲気が合わないから
⑥正直つまらないから
他にもあると思うけれど、とりあえずこれはあると思う。
どれも熱心なクリスチャンからしたら「なんて不信仰な」という話なのかもしれない。以前の私ならそう思った。けれど、これは教会としてちゃんと考えなければいけない事柄だと思う。もちろん、親切なホストになって居心地のいい教会にしろって話ではない。そういう極端な話ではない。そうでなく「教会はこうあるべき」という固定観念の中に、クリスチャンの定着を妨げているものがあるかもしれず、その可能性について考えるてみるべきだ、という話だ。
では順番にみてみる。
①奉仕を求められるのが苦痛
これはいろいろなケースがあると思うけれど、たとえば人生に疲れ切って休みたい人が、初めて教会に行った。そして福音を聞いて信じるようになって、なんとなく礼拝に行くようになって、言われるまま洗礼を受けた。そのうち話の中で、たとえばピアノが弾けることを知られる。すると、
「じゃあ奏楽の奉仕をやりませんか」
となる。その人は休みたいので正直何もしたくないのだけれど、福音を話してもらったとか、皆さんにいろいろ良くしてもらったとか、クリスチャンなら奉仕すべきと言われるとか、そういうことで不本意ながら奏楽奉仕をするハメになる。それでもやるからにはちゃんとやろうと思って、それなりに充実するのだけれど、ふと気づくと、やっぱり疲れている。
そうすると「奉仕は喜び」というのは建前でしかなく、だんだん苦痛になっていく。するといろいろなことが次々と建前になってしまって、ただ形としてやっているだけ、みたいな状態になってしまう。
奉仕を任せる・任せないという話の場合、教会はその人の都合とか精神状態とかをちゃんと考慮すべきだ。人手不足だとか、こういう礼拝にしたいとか、そういう教会側の都合だけで人を使うべきではない。たとえその人が「喜んでやります」と言ったとしても、そういう感情は波があるのであまりアテにしてはいけない。
それに給料を払ってやってもらうんじゃないんだから、まちがっても強制的なニュアンスを含んではいけない。「神はクリスチャンが教会に奉仕することを願っている。だから奉仕は当然だ」とか言う牧師がたまにいるけれど、脅しでしかない。何様ですかって話だ(じゃあ有給だったら強制してもいいって話ではない)。
②毎回献金しなければならないから
誤解のないように先に言っておくと、献金するのは良いことで、礼拝行為でもある。
ただ個人レベルでありがちな「教会での献金」を見てみると、たとえば礼拝中、「献金の時間」があって、カゴが順番に回ってきて捧げる、みたいなスタイルが多い。
「捧げるのは自由です」
「ご用意がなければそのまま回して下さい」
とか言われるけれど、周囲の目がある中、正会員である人が「捧げない」という選択肢を選ぶのは難しい。それに小銭を入れてチャリンと音がするのも(なんとなく)憚られる。もちろんこれは気持ちの問題だけれど、半永久的に続くコミュニティの中の自分の立場を考えたとき、これは単純に「気持ちの問題だから」では済まない。
結果、毎回お札を献金するのが暗黙的義務となる。
要するに、「献金は自由なはずだけど、実は自由ではない」ということ。この場合の「自由」は完全なる建前であって、信仰があるなら捧げるでしょ? まさか捧げないつもり? といつも問われているのである。
だから献金を本当に「自由」にしたかったら、「献金の時間」みたいなものは設けず、目立たないところに献金箱を置くとか、銀行振り込みにするとか、そういうやり方にすべきだろう。
と、いう訳で続きは次回に。