2015年10月4日日曜日

クリスチャンが教会に定着できない(しない)理由について考えてみた・その1

 神様は信じているけれど教会には行かない、あるいは特定の教会に定着しない、というクリスチャンは少なくないようだ。

 統計データはないけれど、身近なところを見てもそう感じる。彼らは「根なしクリスチャン」とか「流浪のクリスチャン」とかネガティブなイメージで言われることがあり、私も以前は同じように見ていたけれど、今は違う。彼らがそういう状況になっている原因は彼ら自身の問題というより、むしろ教会の方の問題が大きいと思うようになったからだ。

 もちろん人は様々なので、一個人の問題として教会に行けない・定着できないというケースはあるだろう。けれど同時に、教会の方に問題があって、ある種の人たちを定着させなくしている、というケースもあるだろう。だから教会に行けない・定着できないクリスチャンを否定的にとらえるなら、教会の方だって否定的にとらえなければならない。それがフェアというものだろう。

 これまた統計データはなく、体験的・感覚的にしか言えないけれど、教会に定着できない理由は次のようなものだと思う。

①奉仕を求められるのが苦痛
②毎回献金しなければならないから
③時間的にも人情的にも拘束されるから
④牧師とうまくやれないから
⑤教会の雰囲気が合わないから
⑥正直つまらないから

 他にもあると思うけれど、とりあえずこれはあると思う。
 どれも熱心なクリスチャンからしたら「なんて不信仰な」という話なのかもしれない。以前の私ならそう思った。けれど、これは教会としてちゃんと考えなければいけない事柄だと思う。もちろん、親切なホストになって居心地のいい教会にしろって話ではない。そういう極端な話ではない。そうでなく「教会はこうあるべき」という固定観念の中に、クリスチャンの定着を妨げているものがあるかもしれず、その可能性について考えるてみるべきだ、という話だ。
 では順番にみてみる。

①奉仕を求められるのが苦痛

 これはいろいろなケースがあると思うけれど、たとえば人生に疲れ切って休みたい人が、初めて教会に行った。そして福音を聞いて信じるようになって、なんとなく礼拝に行くようになって、言われるまま洗礼を受けた。そのうち話の中で、たとえばピアノが弾けることを知られる。すると、
「じゃあ奏楽の奉仕をやりませんか」
 となる。その人は休みたいので正直何もしたくないのだけれど、福音を話してもらったとか、皆さんにいろいろ良くしてもらったとか、クリスチャンなら奉仕すべきと言われるとか、そういうことで不本意ながら奏楽奉仕をするハメになる。それでもやるからにはちゃんとやろうと思って、それなりに充実するのだけれど、ふと気づくと、やっぱり疲れている。

 そうすると「奉仕は喜び」というのは建前でしかなく、だんだん苦痛になっていく。するといろいろなことが次々と建前になってしまって、ただ形としてやっているだけ、みたいな状態になってしまう。

 奉仕を任せる・任せないという話の場合、教会はその人の都合とか精神状態とかをちゃんと考慮すべきだ。人手不足だとか、こういう礼拝にしたいとか、そういう教会側の都合だけで人を使うべきではない。たとえその人が「喜んでやります」と言ったとしても、そういう感情は波があるのであまりアテにしてはいけない。

 それに給料を払ってやってもらうんじゃないんだから、まちがっても強制的なニュアンスを含んではいけない。「神はクリスチャンが教会に奉仕することを願っている。だから奉仕は当然だ」とか言う牧師がたまにいるけれど、脅しでしかない。何様ですかって話だ(じゃあ有給だったら強制してもいいって話ではない)。

②毎回献金しなければならないから

 誤解のないように先に言っておくと、献金するのは良いことで、礼拝行為でもある。
 ただ個人レベルでありがちな「教会での献金」を見てみると、たとえば礼拝中、「献金の時間」があって、カゴが順番に回ってきて捧げる、みたいなスタイルが多い。
「捧げるのは自由です」
「ご用意がなければそのまま回して下さい」
 とか言われるけれど、周囲の目がある中、正会員である人が「捧げない」という選択肢を選ぶのは難しい。それに小銭を入れてチャリンと音がするのも(なんとなく)憚られる。もちろんこれは気持ちの問題だけれど、半永久的に続くコミュニティの中の自分の立場を考えたとき、これは単純に「気持ちの問題だから」では済まない。

 結果、毎回お札を献金するのが暗黙的義務となる。

 要するに、「献金は自由なはずだけど、実は自由ではない」ということ。この場合の「自由」は完全なる建前であって、信仰があるなら捧げるでしょ? まさか捧げないつもり? といつも問われているのである。

 だから献金を本当に「自由」にしたかったら、「献金の時間」みたいなものは設けず、目立たないところに献金箱を置くとか、銀行振り込みにするとか、そういうやり方にすべきだろう。

 と、いう訳で続きは次回に。

3 件のコメント:

  1. 奉仕と献金、どちらも人の持ち物を受け取る行為。それを脅しで集めるから続かない。続かないから去っていくの悪循環。
    小規模なら家庭集会にして、牧師も兼業にして、負担のかかりすぎないようにしないと無理でしょう。神主やお坊さんも兼業が多いですよ。
    それが牧師となるとなぜか、兼業しない事が美徳と思われている。信徒も意識改革を!

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  2. 献金の時に献金担当の人が席に回ってくるから、必ず支払わなくてはいけないのです(袋に中身をいれなければいいんだろうけど、箱を持って回ってくるのでそうもいかない。どの列の箱かチェックされてます)、月定献金の袋はしっかり名前入+金額記入。
    ブログ主さんのおっしゃるとおり、礼拝堂の後ろにひっそりと箱を置くなりして欲しい。振込もいいですね。そのほうがいろんな意味で気兼ねなく、喜んで捧げられると思います。
    そんなに無理してでっかい建物を立てなくても・・・意味があるのでしょうか?
    小さな単位の集まりとかで、家庭集会とか集会所を借りて、サクッと集まってサクッと帰る・・・そういった感じでいいんじゃないかと思う今日この頃。
    そうですね、上の方のコメントにもありましたが、牧師も兼業すればいいと思います。
    普段何をしているか全く分かりません。
    献金を神様に捧げてる気持ちになれません、牧師の謝儀の金額を見てしまうと。

    人数が多いと、誰が誰なんだか分からない。
    交わりっていっても何話していいか分からないし。
    信仰の話なんてしたことないし。
    最近礼拝に行くのが疲れるし、つまんないです。
    結局は人間中心、いかに教会の伝統やスタイルを保つかなんだもの。
    愚痴ってすみません。

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  3. 「下に落としたらチャリーンという音の出るお金を入れてはいけません。下に落としたときに全然音のしないお金を献金箱に入れるのが本当に信仰心がしっかりしている人なのです」と教えている教会が、残念ながら新興宗教系プロテスタントにあるのは事実です。
    彼らが批判しているものみの塔聖書冊子協会の王国会館は、献金箱を入り口においてあって、そこにエホバの証人が志納するという形をとっていると聞いています。(もっとも書籍やトラクトも購入させるわけですので、赤字にはならないようにちゃんとやっているのですが)

    !8:22さんは牧師の謝儀の金額が気になってしまうタイプで、献金負担が重いのも困る、サクッと集まってサクッと帰りたい、聖職者も世俗の労働をすべきである、というお考えです。
    この条件にあてはまる教会ですと、プロテスタントよりもカトリック、とくに教区の運営する教会よりも、どちらかというと修道会の運営する教会(学校等を運営し神父はそこで働いて月に数万の給料を得ている)のほうが、条件に合致しているのではないかと思うのですが?

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