おそらくこの週末、盆踊りや神輿担ぎがあちこちで行われたと思う。私の生活圏もだいぶ賑わい、朝から大人から子どもまで大勢がハッピを着て駅前などに集まっていた。いざ神輿が動きだすと、交通規制が始まり、警察も少なからず動員された。街をあげての例年のイベントである。
いわゆる祭好きには年に一度(あるいは複数回あるかもしれない)のお楽しみだと思うけれど、私のような無関係な人間には、交通規制で不便を被るだけのイベントである。けれど地域には多少の経済効果があるだろうし、コミュニティ内の関係作りという効果もあるだろうし、ずっと楽しみに準備してきた人たちもいるだろうから、私個人は特別それに反対しようとは思わない。
けれど一部の教会、あるいはクリスチャンは、こういった活動を激しく嫌悪し、反対するだろう。「偶像崇拝だ」と言って「霊の戦い」をするかもしれない。今日も町中を神輿が練り歩く最中、教会の中で怒鳴ったり叫んだりして、「主の勝利だ」とか宣言する人たちがいたかもしれない。それで何にどう勝利したのか私にはわからないし、おそらく本人たちもわかっていないと思うけれど。
なんだか滑稽というか、哀れである。
神輿担ぎと、それに付随する行為(神棚に向かって合掌するなど)は、本質的には(キリスト教的に言う)偶像崇拝の部類なのだと思う。私も頼まれてもしようとは思わない(面倒臭いからというのも大きい)。けれど今日の日本人にとって、それがどこまで偶像崇拝として意識されているかは疑問である。おそらく多くの人が、単なるイベントとしてそれに参加している。そしてハロウィンのところでも書いたように、偶像崇拝とは「見える行為」でなく「見えない心の態度」である。だから神輿担ぎに参加する全ての人が、偶像崇拝者だとはならない。
そこにはユダヤ文化と日本文化の違いもある。ユダヤ人にとって創造主は大前提の存在であるだろうから、その対比としての偶像崇拝もわかりやすくなるだろう。けれど日本人には「八百万の神」という多神教的背景があるから、唯一の神を拝むという概念も、それ以外の偶像を拝むという概念も薄い。沢山の神がいるから沢山の偶像崇拝がある、という単純な話ではないのである。沢山いるからこそ、それらを拝むという概念そのものが薄まっていくのである。と私は考えている。
であるなら、神輿担ぎは偶像崇拝者のすることだ、というのも単純すぎる考え方だ。そしてそれを頭から否定するのは、単に地域との断絶を生むだけだ。キリスト教の神が唯一絶対の神であると信じているなら、むしろ地域のそういうイベントに対して、一定の理解や関心を示すべきだ。そしてそれは神輿に関心を寄せるということでなく、地域の人々に関心を寄せるということである。なぜならその人たちこそ、クリスチャンが積極的に愛すべき隣人なのだから。
彼らに近づこう、できるなら福音を伝えよう、とするのはその地域のクリスチャンのすべきことだと思う。そしてその為には、まずクリスチャンの方から礼儀を示し、常識を示し、自然な関係を持てるように努めるべきだと思う。少なくとも教会の中で怒鳴り散らし、神輿担ぎの人々を悪魔の手先だとか、哀れな人々だとか言うことではない。
注)
今日は「語られた」の誤りの続きを書く予定だったけれど、たまたま神輿担ぎに遭遇して思うところがあったので、この記事を優先した。
ブログ拝見しました。
返信削除自分の関わる教会は、やはり「偶像崇拝だから」というわけで、神輿担ぎは認めていません。自治体が主催する祭りや商店街が行う祭りそして地域の神社、寺院がかかわる祭礼等も注意するように言われています。祭りの中身が偶像に関わるから問題だし信仰を失うきっかけにつながるといわれてきました。
今は関わりませんが、牧師から「ある地域で祭りがあるからそのために祈りに行く」といわれその場所に行きとりなしの祈りというかたちで行った覚えはあります。
自分は、職場で自治体のお祭りに参加したときに流し踊りに参加しています。職場貢献の形です。祭り自体は自分が、人ごみが嫌いというのもあるのであまり行きませんが自分の判断での行動で良いと思います。
あまりがちがちとしたクリスチャンの生き方は最近になっておかしいと感じています。地の塩となるためには地域に赴く必要はあると思います。
私が現在所属する教会では、穏健ではありますが(この場合、カルト的な新興宗教教派の様に、何でも霊の戦いとする行動を起こさないという意味です)、「日本的なものは偶像礼拝に繋がっている。信仰に生きるのならば、そのような世の物から身を引き、清められた生き方をするべきである」と言う立場で、地域の神社関連のお祭りには一切関わらず、信徒にもそのように勧めております。
返信削除実は私は以前、そのような考え方が正しいと信じ、ひたすらマイノリティ的な道を行くのが「キリスト者として当たり前」だと確信していました。
しかし今は、と言いますか極近年ですが、そのようなキリスト教の姿勢・信仰・方針・指針等に疑問を感じ、あらためてネット等で調べ、様々な人の意見を聞きながら、やはり一方的に「偶像礼拝だから駄目だ」と言う態度こそがかえっておかしい、と感じるようになりました。
ですから、積極的に関わると言うのではないにせよ、職場や地域社会でそのような立場にある時には、その行動に合わせて行くことが必要であるし、そのコミュニティでの「和」も大切にしつつ、自分の立場も鮮明にして行く事。要は他者の信仰・慣習・行動を認め、自分の立場・信仰・行動も、「必要であれば」明らかにして行く。その中で、自分の確信している希望について分かち合う事が必要ならば、分かち合う。こう言う事こそが「キリスト者」としての本当に求められる事なのではないか、と思っております。キリスト教指導者の耳タコの如くに述べまくる、何が何でも「伝道・救霊」に結びつけるのではなく。
曰く「伝道は牧師だけの仕事ではありません」など。あなた、給料もらって毎日何をやってるの?と言いたくなりますが。
しかし、このような思考・行動は、所謂一部の福音派・聖霊派と言われる教会の(今所属する教会を含みますが)方たちから見れば、「あの人はおかしくなった。信仰から堕ちた。逸脱した。世的になった。」と言われるでしょう。お花畑の女性信徒に多いご意見ですが。
しかし、幾ら聖句を並べて・引っ張り出して・列挙して、ご自分達の「キリスト教的正当性」を誇ってみたところで、それは自身の正当性を神の前で誇っているあの律法学者であり、それこそイエス様の嫌われる事ではないのでしょうか?
私にはどうしても「福音派=律法学者」と言う図式が、頭から離れることがありません。
「クリスチャン」と言うこの世から乖離したネーミングに虫唾が走るのは、私だけでしょうか?
仏教系で宗教的貞操観念の強い新興宗教団体として一番有名なのが創価学会です。創価学会は「みこしをかつぎたいという人は学会員になることはできない。」と指導はしています。ただ現在では、やはりそれをこの国で杓子定規にやっていくと広宣流布は無理だとわかったのか、実は浅草のようなごく一部の地域だけではありますが、みこしをかつぐのを(しぶしぶではありますが)認めていると聞いています。
返信削除ちなみに伝統的なお寺では、地域の神社の祭礼の時に町内の子供会で出す子供みこしに、自分の子供を参加させています。「地域でやっている子供会が出す子供みこしはあくまで子供のためのイベントであって宗教行事ではない。」という解釈だからです。
社会生活を送っていれば、会社の業務命令と割り切って、六尺ふんどし一丁でみこしをかついだり、裸祭りに参加しなくてはならないことがあります。
キリスト教といっても、ヨーロッパではお祭りのときにみこしが繰り出されています。プロテスタントといっても新興宗教系のところだけは、なぜかみこしを敵対視しています。伝統宗教系では「あー、今度の祭りでみこしの担ぎ手が足りないからと友達に泣きつかれた。来週は礼拝を休んでみこしをかつぎにいきます。」といえば、牧師やみんなが「確かみこしは午後からだったよね。礼拝が終わったらすぐ見に行くよ。」といったやりとりができます。
もちろんみこしを担ぐ前には、神社の拝殿にあがって神職からお祓いしてもらわなくてはなりません。もっと厳しい祭礼では、地元の人は何日か前から精進潔斎しないといけないというルールがあったりします。それも業務命令と割り切ってしなくてはならないこともあるのです。
創価学会ですら一部地域ではあれみこしをかつぐのを認めているというのに、「みこしをかつぐのは偶像崇拝だからだめだ。」の一点張りは、「自分たちは創価学会より下です。」と認めているのと同じことではありませんか。
宗教的貞操観念の強い新興宗教系プロテスタントは、なんでもかんでも難癖をつけて「これも偶像崇拝だからだめだ。あれも偶像崇拝だからだめだ。」とやって、偶像崇拝を戒めていますが、彼らはなぜか収入の一割を献金させることには熱心です。収入の一割を献金させるのは札束という偶像を崇拝しているのではありませんか?
神輿に関心を寄せるということでなく、地域の人々に関心を寄せるということである
返信削除という部分ですが、祭りに限らず私はどうなの?これ。と思ったことが。
教会近くのマンションに住んでいる人で、日曜日のマンションの住民による近隣清掃活動をほぼ毎回欠席してるという人がいました。数ヶ月に一回の割合ですがこれって(^^;;なんだかな〜という感じです。
|教会近くのマンションに住んでいる人で、日曜日のマンションの住民による近隣清掃活動をほぼ毎回欠席してるという人がいました。数ヶ月に一回の割合ですがこれって(^^;;なんだかな〜という感じです。
削除かばうわけではないのですが、一度参加して顔が割れてしまうと、美化作業にとどまらず、ほかにもいろいろやってくれ、ボランティアで、それこそ盆踊り大会に運動会、日帰り旅行、花見と、etc 、というコトになるのが嫌だから、かもしれません。
子どもがいれば、PTAの延長でやむなく、というのもあるかもですが、できれば避けたいですからね、町内会の世話なンて。
特に、盆踊りやみこし担ぎなンて、信仰上の良心にひっかかる、ですからね(苦笑)
日曜日は何があっても礼拝を守る日であって、地域の清掃活動などするべきではないし、それこそ会社に出てきて仕事をしてくれと泣きつかれても、絶対にお断りしなくてはならないと指導する教会が、新興宗教系のプロテスタントの中にはあります。
削除そういう教会では「日曜日に出勤するなら会社をやめる。」といって退職した人が、「宗教のためにすべてを捨てたので、この人は英雄だ!」と褒めたたえられるのです。本人は「自分は宗教のためにすべてを捨てたので神は喜んでおられるはずだ。」とどっぷり自己満足です。
数か月に一度の地域の清掃活動すら、宗教を理由にさぼるというのであれば、おそらくその人の地域の人間は全員「キリスト教はだめな宗教だ。クリスチャンはわがままで協調性がない。」と感じるでしょう。その結果「キリスト教にだけは絶対に入信してはならない。」とどの家も家訓にすると思うのです。
もっとも日曜日は宗教を最優先させ、地域の清掃活動をさぼるのがよいことと指導する教会に限って、「日本にリバイバルを起こそう。もっと信者を増やさなくてはならない。できれば地域の人を連れてきなさい・・・」と信者にいうのです。こんな抱腹絶倒ものの茶番が世の中にあるでしょうか?
日曜日の清掃活動に関しては、日曜日に参加するかどうかよりも地域清掃に貢献しているかどうかの方が大事だと思います。班長さんとか自治会長さんと相談して、自分の担当を決めてもらって土曜日のうちにやっておくなどの取組をしている方も実際にいらっしゃいます。
削除仕事に関しては、休息として守ることを新約では求めていませんから、早朝礼拝とか夕刻礼拝に出るなどの方法が有ろうかと思います。日曜日であることには意味が有りますが、日曜日でなければならないということを新約は求めてはいませんから、自分の休暇の日に礼拝を守るような取組も教会によってはありますね。
地域の人々の為…と教会全体でも祈ることはあるのですが、結局教会が忙しくてほとんど関われない、という現状がありますよね。上記の清掃活動について追加すると、不参加の人は決められた額を(千円程度かな?確か。)支払うようで毎回それで済ませていたようです。
削除まぁそれを私がとやかく言える立場ではないですが。
教会によってさまざまな礼拝の守り方?日時設定もありますよね。土曜日や夕方など。必死に日曜日の礼拝を守っていても、それが主を礼拝する以上に何か評価を気にしてとか、行かないとヤバイ?とかだったらまたそれも的をはずしていると思います
本当にその通りですね。
削除札束と言う偶像礼拝その物と、断言いたします。
はっきりと言えることは、キリスト教とは、御都合主義なのです!(^-^ゞ
なんだか完全に感覚がずれてしまっているような気がしてしまいました。
削除地域の人々のために祈る・・・ふと思い出してしまったのは、オウムで地下鉄サリンの指揮を執った井上嘉浩のことでした。
浅見定雄が初めて彼を訪ねていったとき、井上は結跏趺坐をして瞑想をしていました。浅見定雄が「なぜそんなことをしているのですか?」と質問したところ、井上からこんな答えが返ってきたのです「オウム真理教のために犠牲になった方々が、高いところに転生できるようにしているのです」。
この教会の人間は、その地域の人間にいわせると「清掃活動にも出てこない自分勝手なキリスト教系の新興宗教の信者」でしかありえませんよ。自分勝手な新興宗教の信者に「神様~、この地域の人々が救われますように~!」と祈られても、そんなものがいったいなんになるでしょうか。日曜日に清掃をしている地域の人々の救いを祈る前に、するべきことがあるでしょう?そう、よき隣人であることを優先させることなのですよ。
宗教を信じることは、普通の人が普通に持っている感覚を捨て去ってしまうことなのでしょうか?普通の感覚を捨て去った人間になることが、神からみて高く評価されるのだというのでしたら、別に神に高く評価されようとは思いませんね。良き隣人であることのほうが、神から高く評価されるよりもずっと大切なことだと感じられるからです。
どこが主体でやっているかでしょうね、みこし担ぎって。
返信削除市町村役場は信仰の自由があるので、まずはやらないですね。
自治会(町内会)だと、地域のコミュニケーションを図るため、という大義名分があります。
あまり表立って言われない盆踊り大会の裏の意味は、防災訓練です。
何より、キリスト教会のやるどんなイベントよりも、確実にひとが集まる。それも、ご近所単位で。
実行には、人脈を駆使しての段取りに、資金集め、そして当日にはテント張りと食事を調理する場所と設備の設営と備品の稼動確認、そして老若男女問わないひとの参加で、その地域が存在するというアピールになる。これらが、地震や水害での地域的非常時に有効に働くわけです。もちろん、地域での役所や自衛隊の実施する防災訓練もありますが、これを地域住民主体でやるところに意味があると。
お寺がみこし担ぎをやることも少ないでしょうが、神社は地域社会の要。
新興住宅地なら、自治会がわざわざでっち上げてまで地元の公園で盆踊り大会をやるでしょう。
この日本でクリスチャンだけで町内会が存在するという話も聞かないし、ご近所づきあいの一環として、どうしてもと言われれば参加もやむなしでしょうね。
教会のほうとしては、しなくてもいいなら参加するな、でおkにしてくれれば助かります。
まさかの同祖論で、みこしはユダヤの神官がかついだものにルーツが、だったら微妙だし。
ちなみに、僕は、積極的にはやりたくないです。
私は霊を意思を持った存在と考えています。自分が帰依していない霊的存在、即ち神仏に、それらに奉納されるものとして供えられている神輿をかついで持って行くという行動は、相手に対しても失礼が有ろうかと思います。
返信削除教会の取組としましては、机や椅子などの備品を積極的に貸し出したりして貢献するという実践例を知っています。
「地の塩 世の光」
返信削除聖書にあるみ言葉ですが、この言葉を信じるなら、他宗教もまたそれを信じている人も受け入れていく、ということも大事だと考えるのですが、キリスト教は切り捨て教だとか押しつけがましいとか批判されることもあります。
わたしはろう者できれいに話せる障がい者ですが、考えてみるとろうできれいに話せる人はめったにはいません。この世の中には聴者もいるしろう者もいるし、盲ろう者もいます。肌の違いも髪の色の違いも。いろんな多様な人がいてこの世界をつくっている。
そのことに目を向けず、またその多様な社会をつくられた神を信じて、神がつくられた多様な社会ということに目を向けず、たこつぼのようにあるいは「A」か「B」かとしか見ることのできない信仰をもつことを、わたしたちは気をつけなくてはならない。
神社参拝もみこしをかつぐこともできません。ですが、それを信じている人たちの信仰や思いは認めていきたい。自分が神になったかのように「偶像崇拝だ」「霊的戦いだ」とひとり相撲をするのはしたくありません。自分はあくまでも被造物でしかなく、神にはなれないし裁くこともできません。
信仰を主張することと、自分が神の代理人にでもなったかのような態度をとることは峻別して、自分の信仰の主張ゆえに神の代理人のごとくふるまうことに気をつけたい。
ただその一点です。