地域の「神輿担ぎ」をクリスチャンとしてどう考えるべきか

2014年8月24日日曜日

教会と地域社会

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 おそらくこの週末、盆踊りや神輿担ぎがあちこちで行われたと思う。私の生活圏もだいぶ賑わい、朝から大人から子どもまで大勢がハッピを着て駅前などに集まっていた。いざ神輿が動きだすと、交通規制が始まり、警察も少なからず動員された。街をあげての例年のイベントである。

 いわゆる祭好きには年に一度(あるいは複数回あるかもしれない)のお楽しみだと思うけれど、私のような無関係な人間には、交通規制で不便を被るだけのイベントである。けれど地域には多少の経済効果があるだろうし、コミュニティ内の関係作りという効果もあるだろうし、ずっと楽しみに準備してきた人たちもいるだろうから、私個人は特別それに反対しようとは思わない。

 けれど一部の教会、あるいはクリスチャンは、こういった活動を激しく嫌悪し、反対するだろう。「偶像崇拝だ」と言って「霊の戦い」をするかもしれない。今日も町中を神輿が練り歩く最中、教会の中で怒鳴ったり叫んだりして、「主の勝利だ」とか宣言する人たちがいたかもしれない。それで何にどう勝利したのか私にはわからないし、おそらく本人たちもわかっていないと思うけれど。
 なんだか滑稽というか、哀れである。

 神輿担ぎと、それに付随する行為(神棚に向かって合掌するなど)は、本質的には(キリスト教的に言う)偶像崇拝の部類なのだと思う。私も頼まれてもしようとは思わない(面倒臭いからというのも大きい)。けれど今日の日本人にとって、それがどこまで偶像崇拝として意識されているかは疑問である。おそらく多くの人が、単なるイベントとしてそれに参加している。そしてハロウィンのところでも書いたように、偶像崇拝とは「見える行為」でなく「見えない心の態度」である。だから神輿担ぎに参加する全ての人が、偶像崇拝者だとはならない。

 そこにはユダヤ文化と日本文化の違いもある。ユダヤ人にとって創造主は大前提の存在であるだろうから、その対比としての偶像崇拝もわかりやすくなるだろう。けれど日本人には「八百万の神」という多神教的背景があるから、唯一の神を拝むという概念も、それ以外の偶像を拝むという概念も薄い。沢山の神がいるから沢山の偶像崇拝がある、という単純な話ではないのである。沢山いるからこそ、それらを拝むという概念そのものが薄まっていくのである。と私は考えている。

 であるなら、神輿担ぎは偶像崇拝者のすることだ、というのも単純すぎる考え方だ。そしてそれを頭から否定するのは、単に地域との断絶を生むだけだ。キリスト教の神が唯一絶対の神であると信じているなら、むしろ地域のそういうイベントに対して、一定の理解や関心を示すべきだ。そしてそれは神輿に関心を寄せるということでなく、地域の人々に関心を寄せるということである。なぜならその人たちこそ、クリスチャンが積極的に愛すべき隣人なのだから。

 彼らに近づこう、できるなら福音を伝えよう、とするのはその地域のクリスチャンのすべきことだと思う。そしてその為には、まずクリスチャンの方から礼儀を示し、常識を示し、自然な関係を持てるように努めるべきだと思う。少なくとも教会の中で怒鳴り散らし、神輿担ぎの人々を悪魔の手先だとか、哀れな人々だとか言うことではない。

注)
 今日は「語られた」の誤りの続きを書く予定だったけれど、たまたま神輿担ぎに遭遇して思うところがあったので、この記事を優先した。

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