教会とボランティアのあやうい関係

2017年9月29日金曜日

教会と地域社会 雑記

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 先日書いたメサイア・コンプレックスの記事に、ボランティア関連のコメントをいくつか頂きました。大変興味深く拝読しました。ありがとうございます。
 今回はそれを受けて、あるボランティア活動について書きたいと思います。2011年3月の東日本大震災にボランティアとして参加した時の話です。

・教会とボランティアとお金

 311発生後、被災地の一つである宮城県に、教会としてボランティアに行きました。炊き出しや物資提供や瓦礫撤去などしました。最初の2ヶ月くらい、本来の教会行事の大半をキャンセルして、被災地支援に当たったと記憶しています。
 牧師がその活動をやたらSNSでアピールしたので(SNS担当スタッフなるものもいました)、すぐに国内のいろいろな教会や団体から、物資や金銭が集まるようになりました。飲料水や食料品や生活消耗品が教会に山のように積み上げられ、整理するだけで1日掛かり、みたいな状況になりました(感謝だったことに変わりはありません)。
 そのうちに、海外の教会やキリスト教系団体からも、物資や金銭が届くようになりました。また実際に来日してボランティアに参加してくれる人々もいました。ほとんどがアジア系で、韓国や香港、シンガポールなどからでした。とてもありがたかったです。

 余談ですが震災当時、深刻な津波被害が報道されたためでしょうが、大きなゴムボートがいくつも送られてきました。念のため1つ持って行ったのですが、結果的に出番はありませんでした。ゴムボートを使って何かしなければならないような状況が、少なくとも私たちが行った地域には、なかったからです(津波被害が酷かったのは言うまでもありません)。考えてみれば、素人が被災地でゴムボートを使うのも危険だったでしょうけれど。

 ところで送られてきた金銭に関しては、「送られてきている」と聞いただけで、具体的な金額や使途は、全く知りませんでした。でも今思うとものすごく怪しいです。その時期を境に、教会の備品がアレコレ増えたからです。しかも高額なものの数々が。
 それらの金銭がどういう名目で送られてきたのか、今となってはわかりません。
 もし「義援金」であるなら、それは1円残らず被災地に届けなければなりません。ボランティアはあくまで自費でそこに行き、自費で過ごし、「義援金」を「届ける」のです。そのボランティアにギャラなど発生しません。24時間テレビとは違うので。
 しかしこれがもしボランティアに対する「支援金」であるなら、ボランティアの経費として使われて差し支えないでしょう。ボランティアで行く人の交通費や食費、宿泊費などに使われるのが「支援金」だからです(でもやっぱりギャラではありません)。
 だから届いた金銭が「義援金」なのか、それとも「支援金」なのか、明確にしなければならないでしょう。送って下さった方々がどこまでそれを意識していたか、という問題もありますけれど。
 その点うちの教会はかなりグレーだったんじゃないかと想像します。これも今となっては確認しようがないことなのですが。

 でもこれと同じ問題が、他のいくつかの教会にもあったようです。知り合いがいるいくつかの教会も被災地支援をしていて、時々合流しました。皆一生懸命でした。しかしその中には「お金を送ったのに未だに会計報告がこない」と言われている教会もあります。被災地支援をキッカケにお金に狂ってしまった教会もあります。うちもそうだったのかもしれません。

・品位が疑われる発言

 そんなあるとき、海外のある教会から大人数のボランティア参加がありました。たしか30〜40人くらいだったと思います。皆十代から二十代の若者たちで、中年の牧師(日本語を話せる)が1人同行していました。近所の教会からマイクロバスを借りての大移動となりました。
 さてその大人数で、宮城県の某所でボランティア活動をしました。その移動中のことです。私たちは津波被害の大きかった地域を川沿いに走っていました。名前はわかりませんが大きな川でした。その川の真ん中に、津波で流された家が一軒、ポツンと取り残されていました。二階建てだったと思いますが、既にボロボロで、傾いていて、屋根と二階部分が川面から出ていました。言葉にならない風景でした。
 その家を見た、先の中年牧師が笑いながらこう言いました。
「あの家にまだ人が住んでたりしてww」
 バスに乗っていた、少なくとも日本人が絶句したのは言うまでもありません。

・独りよがりなコンサート

 ボランディアをはじめて2ヶ月後くらい、つまり5月あたりですが、現地のインフラも物流も、だいぶ回復したように感じました。おそらく地域差もあったでしょうが、私たちが関わった避難所の多くがその役目を終えていました。市街地の多くの店が営業を再開し、物にも困らなくなりました。
 市街地の急速な回復と、沿岸部のそのままになった瓦礫の山、という対極的な構図が明確になった時期でもありました。

 するとボランティア活動も変化しました。物資の運搬も炊き出しも、ほとんど必要なくなったのです。代わりに教会は、地域の子供たちのためのイベントや、慰安目的のコンサートを開くようになりました。
 子供向けのイベントはある程度活況だったと思います。地域の子供たちが沢山集まってくれました。と言ってもほんの一地域での話ですが。
 コンサートの方は、教会で普段歌っている人たち(素人)が舞台に立ちました。ダンスやコントなど交えて、基本は素人の発表会みたいな形です。もちろん無料で、「復興支援」と銘打っていました。牧師はやる気マンマンでした。
 結果、コンサートにやって来たのは自教会のメンバーと、協力してくれた他教会の人たちと、被災地で知り合った人たち(数人)でした。飛び込みで入ってきた地元の人も何人かいたかもしれません。いずれにせよ会場はガラガラでした。今思うと「復興支援」というより、内輪で盛り上がっているだけでした。

 とは言え、舞台に立った人たちは皆一生懸命でした。裏方のスタッフたちもそうです。牧師に言われた通りにやっただけです。

 プロの歌手が被災地でボランティアとして歌った、という話なら聞きます。しばしば美談として。しかし素人集団が「被災者を慰めるため」にコンサートを開くというのは、正直なところどうなのでしょう。キリスト教だから、あるいはクリスチャンだから、というのは特別視される理由になるのでしょうか。
 詰まるところ、人々の関心を集め、心に響くようなクオリティの何かを提供できるなら、プロでも素人でもアリだと私は思います。逆に言うと、プロだろうがキリスト教会だろうが、そういうものを提供できないならば、コンサートであれイベントであれ「価値はない」と思います。
 歌にしろダンスにしろ、人様の前で披露する(見て頂く)事柄には、そういう厳しさがあります。そうではないでしょうか。

 しかしその手の教会が陥りやすい心理状態として、「教会だから」とか「神様が共におられるから」とかいう理由だけで、「何か特別な、すごいことができる」と思い込んでしまう、というのがあると思います。件のコンサートで言えば、「私たちが歌えば被災者たちも大いに慰められるはずだ」みたいな。でもそれは甘いし、思い上がりだと私は思います。そういう気持ちでボランティアをしても、「独りよがりな押し付け」にしかならないのではないでしょうか。

・メサイア・コンプレックス的なボランティア

 というわけで、東日本大震災の被災地でのボランティア活動を振り返りながら、クリスチャンのボランティア活動のダメだった(と私が思う)例をいくつか紹介しました。

 ボランティアというと、誰でもできる、気軽にできる、皆でワイワイ楽しくできる、みたいなイメージがあるかもしれません。たしかにそういう面もあり、そういう現場もあるでしょう。でも不特定多数の、様々な状況の人に関わる以上、最低限守らなければならないラインみたいなものもあります。
 また教会であれクリスチャンのグループであれ、何も特別な存在ではありません。たとえば被災地の方々からすれば、ボランティアに来てくれた相手が仏教徒だろうがモルモン教徒だろうがキリスト教徒だろうが、ほとんど関係ないです。要は「何をしてくれるのか」でしょう。そしてどれだけ自分たちの現状を理解してくれるかでしょう。教会が「自分たちは神を信じているのだから偉大なことができる」とどれだけ強く思っていても、全然関係ありません。

 だからボランティア活動に携わるクリスチャンの方々は、「メサイア・コンプレックス的なボランティア」になっていないかどうか、時々振り返ってみると良いのではないかなと私は思います。

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