「神に語られた」の乱用について3回目。「語られ方」の誤りの続き。
・思いに「語られた」
同じく、クリスチャンが何かの選択をしなければならず、しばらく悩んだり祈ったりしている時、その「思い」というか「意識」というか、そういう部分に、何かしらのアイディアが生まれる。それはイメージだったり抽象的なモヤモヤだったり、言語化できない何かだったりする。あるいは睡眠中の夢という形で現れるかもしれない。
そしてそれが、自分の直面している選択と無関係でなく、いわば「祈っているからこそ湧き上がったアイディア」、つまり神様からの「語りかけ」のように思える。
そしてそれが、自分の直面している選択と無関係でなく、いわば「祈っているからこそ湧き上がったアイディア」、つまり神様からの「語りかけ」のように思える。
その「語りかけ」に従って何かを選択し、結果が良いように思われると、「あれは神様が私の思いに語って下さったのだ」となる。
この「思いに語られた」は、本当に神からのものだろうか。
これは、前回の「人を通して語られた」とよく似た構造を持っている。前回のは、いろいろな人のいろいろな言葉の中から、自分にとって都合の良いものだけを選ぶという「確証バイアス」だったけれど、これはその舞台が、自己の内面に変わったものである。
およそクリスチャンは普段から聖書を読むだろうし、真面目な人や信仰歴の長い人なら、全巻通読も何度かしていると思う。だから聖書の言葉をたくさん覚えているし、細かく覚えていなくても、どのへんにどんなことが書いてあるか、だいたい把握している。
そういう人が何か選択しようとする時、聖書知識が働くのは、しごく当然のことだ。ほとんど無意識的に、「聖書のここにこう書いてあるな」「あの箇所はこう言っているな」などと考えて、自分の選択に必要な情報を探っている。
もちろん聖書は神様からのメッセージなので、その言葉を思い出すのは、広義には「神に語られた」と言える。「思いに語られた」と言っていいかもしれない。
けれどこの場合、前述の確証バイアスが働くことが、十分考えられる。
たとえば、聖書は時に相反した二つのことを言っている。有名な例で言うと、「信仰は行いによるのではない」と、「行いのない信仰は死んでいる」である。ある選択に際して、何か行動すべきと思っている人は後者を強く思うだろうし、行動したくないと思っている人は前者を連想するだろう。つまり、自分の状況に応じた聖書箇所を無意識的に選ぶのだ。
これは聖書の広大な知識の中から、自分の都合の良いものだけを選ぶ、という形の確証バイアスだと言える。もちろん前述のように、聖書は神からのメッセージだから、聖書を思うことによって「思いに語られる」ことはあり得る。けれどそこに無意識的な選択が入り込み、自分の都合の良いこと、こう語られたいと願っていることに絞られていくとしたら、そのプロセスに神様は一切関係ない。そういうのは「語られた」とは言わない。
余談)
牧師の中に、「淡いセンセーション」という表現を使う人がいる。淡いセンセーションとは、何となく心に浮かんだ印象、みたいなものだ。
それが神からのものか、単に自分自身のものか、判別できないことがある、という。もしかしたら神からのものかもしれないし、そうでないかもしれない。その場合どうするかと言うと、(牧師いわく)「とりあえずやってみる」のだそうだ。
とりあえずやってみて、何か良い結果だったり、神様の栄光が現されるような結果に至ると、「そのセンセーションは神からのものだった」と言える。逆にそうでなかったら、「単に自分自身の思いだった」となる。
これは、神に語られたかどうかを判断する方法論的には、面白いかもしれない。
けれど結局のところ、「とりあえずやってみて、うまくいったら儲けもの」という「ダメもと」的判断であって、見えないものを信じるという信仰とは違う。初めから神からのものと確信していない訳だから、少なくとも信仰から出た行いではない。
どうもみていると、福音派聖霊派のひとたちは、信仰を「A」か「B」かと2つに分けて考える、二元論的な思考が多いように思えます。それは福音派聖霊派を批判すれば事足りるものではなくて、うっかりへたをすると伝統的な教会やリベラル派にも入り込んでくるようにも思えます。ですからわたしはみなさんのなかで「新興宗教系キリスト教」なるものがあって、教祖があるとしても、彼らが異常な発想だとかアタマがおかしいとか病気だとかいうよりも、宗教のもつこわさ、思い込みや固定した考えにとらわれやすいということに気をつけるべきだと考えています。
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