2014年8月27日水曜日

教会と地域社会の関わり

 地域の神輿担ぎにクリスチャンとしてどう関わるか、という記事に、沢山コメントをいただいた。関心の高いトピックだったと思われる。そしていただいたコメントを通して、問題の本質が単に神輿担ぎでなく、地域とどう関わるかという点にまで及ぶことがわかり、興味深かった。
 
 という訳で今回は、神輿担ぎの続きではないけれど、「教会と地域社会」というテーマで一つ書いてみたい。

 私の知っている教会事情は主に福音派・聖霊派だけれど、それらの教会では、地域への働きかけがけっこう重視されている。「地域を福音化していく」とか、「地域にインパクトを与える」とか、たいそうなスローガンが掲げられている。そして教会によっては種々の活動を展開している。たとえばバザーとか、1日限定の飲食店とか、無料のコンサートとか、スポーツイベントとかだ。そういうときは教会員が駆り出され、総出で一日奉仕することになる。
 
  そういう個々の活動は、なにも教会がしなくてもいいことばかりである。たとえば無料のコンサートなど、基本的に素人が頑張って人様に聴いてもらわなければならないから大変だ。なんでそこまでしなければならないんだとも思う。けれどするのは、前述のスローガンの通り、「最終的に福音を伝えるため」だ。それが牧師の言い分である。「この活動を通して一人でも救われれば万々歳だ」とか、「一人でも救われるなら、採算がとれなくてもするべきだ」とか言う。

 なるほど、「人を救う」ためだと言われれば、クリスチャンとしてはすべきだろう。まして自分の教会の牧師から言われたら尚更だ。

 ではそれは、本当に地域社会の為なのだろうか。
 確かに、たとえばバザーに来た地元の人と知り合いになって、仲良くなって連絡を取り合うようになり、しばらく関わるうちにクリスチャンになった、というケースがあるかもしれない。その場合、そのバザーが収益的にイマイチでも、その人の人生にとっては大きな意味があったことになるから、全然無駄でなかったと言える。むしろすべきだったかもしれない。

 けれど私の見てきた例で言うと、バザーや飲食店でいくら利益があったとか、何人来たとか、来た人に粗相がなかったかとか、うまく運営できたかとか、そういう「数」や「見てくれ」ばかりが重視される。そしてうまくできなかった点について信徒が叱責される。最終目標が福音を伝えることだとか言われても、後付けの理由にしか聞こえない。結局のところ、地域のためというより、教会が目立つこと、注目されることが重視されているように思える。

 そういう教会の地域への関わり方は、いつも一方通行だ。教会が地域より常に上位であり、与える側であり、施してあげる側にある、と思っているようだ。その証拠に、地域が主催する活動には一切参加しない。地元の清掃活動とか、祭事のための寄付とか、子どものイベントとか、教会(牧師)は完全拒否・無視だ。特に牧師は、自分が主導できないことには一切タッチしない。福音が云々と言っても、要は未信者の下には付けないのである。

 もし本当に地域に仕えたい、関わりたいと思うなら、まずはその地域が言うこと、やることに関心を示すべきだ。最初に自分から歩み寄るべきだ。イエス・キリストも人間に対してそうされたはずだ。サマリアの女をつかまえて、いきなり上目線で語った、なんて書いていない。

 ここまで書いてふと気づいたけれど、ある教会の健全さを測りたいときは、その地域との関わり方を見るのもいいかもしれない。関わり方が一方通行でないかどうかだけでも、その教会(牧師)の本音が見えてくるように思う。

1 件のコメント:

  1. 「地域に仕える」というヴィジョンを上げているところもあることはありますよ。
    でもそんなところだからいいところなのかと問われれば、話はそう単純ではないのですから、このあたりが難しいといえば難しいと思うのです。
    ある新興宗教系のプロテスタントの教会の例をあげますが、その教会は確かに「地域に仕える」というヴィジョンをあげてはいます。そこは教祖様の事業欲が大変旺盛で、嫌な言い方をすれば、信者さんたちはそれに振り回されているような印象を受けますね。
    子供や老人や障碍者といった、社会的弱者のためにいろいろな事業をやっているのは確かなのですが、社会人の信者が二百人もいないであろうと思われる教会で、あそこまで盛りだくさんにやっているとなると、出ていくお金はハンパなく・・・・。
    もちろん新興宗教系のプロテスタントということで、繁栄の福音を支持していないとはいえないと思いました。なぜなら教祖様は「教会が豊かになれば、それが信者のほうにもおりていって、信者も自然と豊かになるのだ」と教えていますし、お堂もかなり立派な建物だからです。建物が立派になればそれだけいたみやすく維持費もかかりますよ。
    「地域に仕える」というヴィジョンを持ち、社会的弱者のために様々な福祉的な事業をやっているということで、その教祖様をわが町の篤志家と見る人もいるのかもしれません。しかし建物関係の費用や教祖様の「地域に仕える」ヴィジョンによって立ち上げられた様々な福祉的な事業にかなりのお金がかかってしまって、その教会では什一献金のほかにもさまざまな名目で、しょっちゅう献金のお願いがなされています。
    かなりお金のかかる教会ということで、もちろん信者のほうも衣食住に事欠く所得の人はほとんどいませんし、そんな人が勧誘されることもありません。あくまでそれなりに出せる人(最低でも什一献金はできる人)しかその教会にはいません。信者のほうもどういった人をつれて来るべきかはちゃんと心得ていますので、誰彼かまわずトラクトを路上で渡すというような効率の悪いことはしません。万が一間違って低所得の人が来たとしても、おそらく半年もたたないうちに「ここは自分なんておよびじゃない」とわかって去ってしまうでしょうね。
    もっとも最近はその教会もバブル期ほどの収益はないようです。バブル崩壊で什一献金ができるほどの収入のある人が減ったことが一番大きいでしょうね。また求道者が行く前にカトリックよりプロテスタントのほうがお金がかかるといった基本的な情報を、インターネットでちゃんと調べるようになっていることもあってか、以前ほど求道者、とくにその教会が求める最低でも什一できる人が、来なくなってしまったのが大きいようです。そのせいかここ三年ほどは祈祷会でも「教会を去った人が戻ってくるように祈りましょう」といわれるようになっていますが・・・。

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