2014年8月23日土曜日

「神に語られた」の誤り・あるいは思い込み・あるいは捏造・その2

「神に語られた」の乱用について2回目。「語られ方」の誤りの続き。

・人を通して「語られた」

 クリスチャンが何かの選択をしなければならず、しばらく悩んだり祈ったりしている時に、ある人、たとえば牧師とか先輩クリスチャンとかが何気なく語った一言が、非常に強く印象に残る。そして結果的に、その一言が自分の選択に大きな示唆を与えた、あるいは影響を与えた、とする。
 するとその人は、「誰々さんを通して、神様が語って下さいました。それでこの選択をすることができました」とか言う。けっこう聞く話だけれど、果たしてこれは本当なのだろうか。

 誰かに言われたこと(意図的であってもなくても)が何らかの「道しるべ」になったり、ヒントになったり、解決の糸口になったりすることは、日常的にある。あるいはそれは誰かの言葉でなく、何かの風景とか、様子とか、現象とかでも起こる。私たちは普段から、周囲の環境から何らかのヒントなり情報なりを引き出そうとしている。

 たとえば今日の夕飯をどうしようかと考えた時、ちょうど誰かが隣でカボチャサラダを食べていて、「あ、カボチャサラダもいいな」と思ったりする。新しい腕時計がほしいなと思っている時、たまたま入った店にタグホイヤーが並んでいて、「タグホイヤーいいかも」と思ったりする。
 そしてそういう体験は、クリスチャンとかキリスト教とか関係なく、人間全般にとって日常的なことだ。

 たとえばJRの磁気式定期券(現在のタッチ式の前のもの)の開発者は、定期券が機械にまっすぐキレイに挿入されないと正しく読み込めない、という難題に直面していた。完全に煮詰まった彼は、川に散歩に行った。そして川の流れを眺めていた時、水が石を迂回して流れる様子から、定期券がどの角度から入ってもスムースに読み込める仕組みを思いついた、という。

 この場合、定期券の「流れ」についてずっと悩んでいた人が、川の「流れ」からヒントを得た、ということである。これは神様の語りかけなのだろうか? もちろん広義には、神様はこの世界全体を支え動かしておられる訳だから、そこにも介在されただろう。けれど彼は未信者なのだから、「信者に親しく語られる」と信じる「語られクリスチャン」たちの主張には反している。神は未信者に対しても、その悩みの答えをタイミングよく与えられる、ということになるからだ。
 もしそうなら、この世の中はもうちょっと良くなっているはずだ。日本の自殺者が毎年3万人に達することもないだろう。

 この「人を通して神に語られた」は、認知心理学で言うところの「確証バイアス」みたいなものだ。自分にとって都合のいい、ほしい情報だけを取捨選択して集める、という現象だ。
 周囲に人が大勢いて、いろいろな人がいろいろなことを言う中で、ある一言だけが気にかかる。それは単純に、自分が聞きたいこと、知りたいこと、言ってほしいことだからだ

「献身したい」と願っていて、でも今の状況的にはあり得ない、という人がいるとする。多くの人が、彼に反対している。「今はまだ早いよ」とか、「もう少し考えたほうがいい」とか。そんな時、たまたま立ち寄ったキリスト教書店で、ある信仰書のフレーズが目に留まる。「心配も何も全部捧げるのが信仰」。彼はそれだけを見て、「やっぱり神が自分を献身に導いている」と確信する。
 それは神からの語りかけなのだろうか? あるいは自分の思い込みなのだろうか?
 その答えは結果に現れる。献身の結果、経済的ににっちもさっちもいかない状況に追い込まれたとしたら、それは後者だったのである。

 という訳で、この「語られた」も、人為的な操作によるところが大きい。語られたいクリスチャンは、よくよく注意すべきだ。

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