声を上げること

2019年2月12日火曜日

生き方について思うこと

t f B! P L
「声を上げられない」「声を上げにくい」「声を上げても届かない」という状況を、最近よく見るように思います。

 虐待される人の声。性被害に遭った人の声。奴隷のように働かされる人の声。暴言暴力に晒される人の声。不利な立場、弱い立場ゆえに抑圧される人の声……。

 なぜでしょう。理由の一つはこれではないでしょうか。

 声を上げても何も変わらないのではないか。
 むしろ声を上げると反撃され、第三者から批判され、余計に辛い目に遭うのではないか。
 だったら黙っている方が、まだいいのではないか。

 中学時代、体が大きくて乱暴な先輩がいました。同じ部活の後輩たちは日常的に叩かれたり蹴られたり、暴言を浴びせられたりしていました。私自身はほとんど関わりがありませんでしたが、年末の大掃除か何かの時、その乱暴先輩と一緒になってしまいました。

 中学当時、私はまだ体が小さく、見るからに「モヤシ」でした。案の定、乱暴先輩は私の頭を小突いたり、バカだのアホだのと罵ったりします(息をするみたいに暴力を振るう人間でした)。私は腹が立って、正面から「やめろ」と抗議しました。後先考えない性格だったのです。

 で、どうなったかと言うと、そのへんにあった大きな枝で思いっ切り叩かれて、蹴られて、余計に酷い目に遭いました。黙っていればそんな目に遭わなかったでしょう。完全に損した感じです。

 しかし先生に言いつけようとか、親に訴えようとか、そういうことは考えませんでした。言いつけたら復讐されるからです。被害の拡大を防ぐには、黙っているしかありません。

 というのがかつて私が実際に受けた暴言暴力です。もちろん昨今報道されているような虐待事件や性被害に比べたら、全然大したことありません。昔のことですからもはや被害とも思っていません。でも基本的な構図は、まったく同じではないかと思います。

 被害を受けた方が、黙っていなければ余計に辛い目に遭ってしまう、という構図です。

 では私はあの時、黙って小突かれていた方が良かったでしょうか? 声を上げて余計にやられるよりは、「これくらい」と思って我慢した方が良かったでしょうか?

 これはあくまで私個人の考えであり、私個人のケースですが、あの時「やめろ」と言えて良かったと今でも思っています。なぜなら自分の尊厳が侵されたことに対して、はっきり「ノー」と表明できたからです。

 たぶん乱暴先輩は、そうやって抗議される経験がほとんどなかったでしょう。反撃してこなそうな相手を選んでやっていたのですから。だから「やめろ」と言われて、少なからず動揺したり、怒ったりしたと思います。もちろんそんなの微々たる抵抗ですが。それでも、価値があったと私は思っています。理不尽な暴力に遭ったけれど、完全には屈しなかった、と。

「声を上げられない」「上げても変わらない」「上げたら余計酷い目に遭う」というのは事実です。その痛み苦しみに耐えられず、黙って耐えることを選んだ人、選んでいる人がどれくらいいるでしょう。とてつもなく多いと私は想像します。

 そんなこと、本来あってはならないのです。人の尊厳を侵すことは誰もしてはなりません。しかしそれは起こってきましたし、今も起こっていますし、残念ながらこれからも起こるでしょう。

 では私たちはどうしたらいいのでしょう。何ができるのでしょう。いくら民主主義だ、法治国家だと言っても、結局は強者が弱者をいいように扱う世界です。選択の余地は絶望的なくらいないように思います。

 ただ私が願うのは、どうか人間としての尊厳だけは奪われないでほしい、ということです。何も言えなくても、何もできなくても、尊厳だけは奪われないでほしい。それはある人にとっては煮えたぎるような怒り、ある人にとってはいつまでも終わらない後悔、またある人にとっては死にたくなるような嘆きかもしれません。いずれせによ「自分はこんなこと認めない」「こんなこと許さない」という気持ちを、諦めないでほしいのです。

 そしてできれば声を上げていただきたい。理不尽な全てのもの、自分の尊厳を侵そうとする全てのものに、はっきりノーと表明していただきたい。

「それができれば苦労しないよ」と言われるのももっともです。それでもあえて書かせていただきました。
 最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

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