存在の記憶

2012年11月3日土曜日

雑記

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今日は久しぶりに、学生時代に一人暮らしをした街を訪れた。実に15年振りである。母校の同窓会総会に出席するのが目的だった。
総会の後、懐かしい街並みを歩いてみた。ずいぶん様変わりしている。古い店は消え、新しい店ができている。なかった建物が次々と建ち、昔の面影はだいぶ薄れているようである。
15年もたっているのだから、当然だろう。
歩くうち、自分のかつての生活圏に近づいた。2年間住んだ寮と、バイト先の古本屋と、行きつけのコインランドリー、コンビニ、その他もろもろ。今はどうなっているのだろうと、期待半分不安半分。
たどり着くと、まず古本屋が美容室に変わっていた。寮は小綺麗な一軒家に、コンビニは雑貨店に。コインランドリーだけが、ひっそりと昔の姿を残している。
さみしかったのは言うまでもない。

そこに、自分が住んでいたことを証明するものは何もない。近所付き合いもなかった。だから誰も自分のことなど知らない。

哲学的な話になるが、それは私たち人間の存在自体にとっても、同様なのであろう。
ある人が存在した。そして死んだ。それを知る人も、全て死んだ。すると、歴史書にでも記されない限り、その人の存在は、ないも同然ではないだろうか。
確かに生きて、働いたり、家族を作ったり、何かをしたかもしれない。しかし、それらが語り継がれるのは、ごく一部の人間だけなのだ。

べつに後世に語り継がれたいとも思わない。大きなことをしたいわけでもない。ただ、この手の話を考えると、やはり、私は次の問いに突き当たる。

人はなぜ生きるのか?

クリスチャンである私は、その答えを持っている…はずである。
しかし、本当だろうか。
頭で理解している、その答えを言うことはできる。
しかし、私自身は本当に、そのことの意味がわかっているのだろうか?

そんなことまで考えさせられた、久しぶりの訪問であった。

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