「悪の教典」がクリスチャンに問いかけるもの

2020年3月16日月曜日

雑記

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 微妙に古い作品だけど最近、貴志祐介の「悪の教典」を興味深く読んだ。


 伊藤英明主演で映画化もされている。サイコパスかつシリアルキラーの高校教師が、邪魔者を片っ端から殺していくストーリーだ。最後は自分が担任する生徒40名全員が邪魔になり、文化祭準備の校内泊まり込みの夜、猟銃で順番に殺して回る。非常に不謹慎でぶっ飛んでいる。

 それがキリスト教と何の関係がある? と思われるかもれない。
 わたしは大いにあると思った。

「悪の教典」で興味深かったのは、校内に銃を持った殺人鬼(実は担任教師)がいるとわかった生徒たちが対策で揉めて、次の3つのグループに分かれてしまう点だ。

①先制攻撃を試みるグループ
②バリケードを作って籠城するグループ
③教師の言葉(罠)を信じて逃げ場のない屋上に避難するグループ

 犯人いわく、厄介なのは①だけ。この自ら戦いを仕掛けてくるグループさえ片付けてしまえば、あとは赤子の手をひねるも同然、とのこと。

 言われるまま屋上に避難してしまった③のグループは、一番扱うのが簡単という意味で「羊」と呼ばれた。キリスト教も信徒を「羊」にたとえる。そこには「何も考えず盲従する愚かな者たち」という意味が含まれているのかもしれない(と思った)。

 ちなみに生徒たちにとって一番生存確率が高い方法は、①でも②でも③でもなく、全員まとまって一斉に、しかも別々の方向に逃げることだった。犯人がもつ猟銃は2発打ったら再装填しなければならないタイプで、バラバラに逃げる40人全員を仕留めるのは無理だから(しかし残念ながら、生徒たちにそれを知る術はなかった)。

 カルト化教会の場合、リーダーに面と向かって意見したり異議を唱えたりする①のグループのような信徒は、早々に排除されてしまう。結果的に従順で文句を言わない③のグループのような信徒だけが残る。

 結果、教会は自分で考えることを放棄して言われるまま動く「羊」の群れになってしまう。指導者にとってまことに都合のいい状況がである。

 さて、クリスチャンの皆さん、あなたは①のグループか、②のグループか、あるいは③のグループか。
「悪の教典」はそんなことをわたしたちに問いかけている気がする。

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