「自分自身を愛せないと他者をも愛せない」と教会で言われることがあると思う。
けれどそもそも、「自分を愛する」ことが何なのかよくわからないのではないか。
「自己中心ではいけない」とも言われるから、余計に。
だからまずは、時間をかけて髪を洗うとか、肌に丁寧にクリームを塗るとか、そういう物理的なお手入れで、自分自身を労ってみたらいいと思う。大切にすることは、要は愛することだと思うから。
ではこれにはどう対処したらいいのか。
「自己中心は罪だ」
「自分を無にして神に仕えなさい」
これで自分のことなど二の次三の次にして、奉仕しまくってしまう人がいる。それ自体は尊敬すべきことかもしれない。けれど「奉仕しない自分には価値がない」「皆の役に立たないと認めてもらえない」みたいな自己認識だとしたら、残念ながら不健全だと思う。頑張れば頑張るほど、歪みが大きくなってしまうかもしれない(また他者にも奉仕を強要するようになってしまうかも)。
「自己中心は罪だ」は一見正しいようだけど、そもそも人間誰しも自己中心の塊だし、どうやったってそこから離れられないのだから、それを否定しても苦しいだけだと思う。「無私の奉仕」にも自己満足が隠れている。そういうのを全部認めて、「これが自分です」ってところから始めないと、何をやっても嘘っぽいのではないか。
だからまず自分自身を(物理的に)大切にして、ケアして、自尊心をちょうどいいところに保つことから始めたらいいと思う。特に日本人は自尊心の低い人が多いから。自分を大切にすることは、自己中心とは違う。
追記)
教会の教えをないがしろにしていい、という話でなく、まず受け取る側の自己認識が大切ですよ、という話です。
誰もが自分を愛すること、家族を愛することは自然なことだと思っています。
返信削除しかし、私たちは自分のために生きているとき、本当に自分を愛することができているのでしょうか?
自分の将来の安定のため、あるいは異性に自分を結婚可能対象として見てもらうために、ブラック企業にしがみついているとしたら、その人は本当に自分を愛することができているのでしょうか?
テレビやネット、雑誌に紹介されるようなセレブの仲間入りをしまくて、自分や家族のために無理な投資をして、体も心も絆もボロボロにしている人々、そのような人は本当に自分を愛することができているのでしょうか?
子供を虐待死させた親も、子供が憎いから虐待したのではなく、子供を愛するがゆえに、子供の将来のために過度な教育熱に浮かされた結果、子供を虐待死させてしまったのです。
いったい、自分や家族を大切にし、愛するということは何か?私たちは自分を愛し、自分に投資することによって、自分や家族を破滅に向かわせているのではないか?
これが何を意味するのか?それは、私たちが自分や家族を生かすために、それが「救い」であるかのように、抱きしめているものは「偶像」ではないか、ということです。
人は、そのような偶像を捨ててこそ生きるのではないか?自分の救いと信じてきたものを自分から引き離すことは痛みをともないます。しかし、自分を捨ててこそ、生きる。自分の偶像を捨ててこそ、生きる。
イエスが「彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのか、わからないでいるのです」と言ったように、私たちは自分や家族を愛するという「自然な(!?)」ことすら知らず、できないでいるのです。
だから、聖書に言われるような「自分を捨ててこそ、生きる」という言葉は、このように解釈できるでしょう。
つまり、「あなたが、あなたの命のように、あなたの救いであるかのように抱きしめている、そのあなたの偶像を捨てよ。そして、あなたは生きよ」と。