誰にとってシンプルなのか
「福音はシンプルだ」「信仰はシンプルだ」となんでもシンプル化するのがキリスト教界隈の一部で流行っています。いろいろ難しく考えるのはやめましょう、イエス様も大切なものは一つだけだと言ったでしょう、無用な論争を避けて平和にやっていくべきです、というわけです。けれど、シンプル化は「雑な省略化」と表裏一体です。大切にすべき細部や、様々な例外的なケースを丸ごと切り捨てていないか、考えないといけません。
例えばクリスチャンの一部は「福音の三要素」に執着していますが、彼らがその根拠として挙げるコリント人への手紙第一15章は、その文脈に従えば三要素でなく四要素を「重要なこと」として提示しています。「三要素」にシンプル化したせいで、もう一つの重要な要素を省いてしまっているのです。いつも説教で「分かりやすく三つのポイントで語ります」などとまとめている弊害でしょうか?
自分たちの理解しやすい形にシンプル化して、「大切なのはこれだけ」と言い切るのは確かにラクです。とっつきにくい聖書のハードルを下げてくれるので歓迎されるかもしれません。しかしそうやって枝葉をばっさり切り捨てられるのは、自分が「細かいこと」に悩まされない、気にしなくていい、無視できる立場だからではないでしょうか。だとしたらそれはあなたの特権です。そして誰もがその特権に与っているわけではありません。あなたが無視してやり過ごせる「細かいこと」に、信仰生活の根幹が関わっている人もいます。
例えば「イエスが天の神に向かって『アバ父よ』と語りかけているのだから、天の神=男=父なのだ」と言い切ってしまうのは簡単かもしれません(事実キリスト教界は永らくそう理解してきたでしょう)。しかし正確には、「神は男でもある」し、「父でもある」と言うべきです。なぜなら人間が「神の似姿」である以上、そのモデルとなっている神は男であり、女であり、父であり、母であり、息子であり、娘であり、もっと言えば異性愛であり、同性愛であり、両性愛であり、無性愛であるはずだからです。そう理解することで、初めて安心できる人がいます(例えば神を「父」と呼ぶことにどうしても抵抗を覚える人は少なくありません)。
そうした面に想像力を働かせられない、自分の特権に無自覚な人が語る「福音」に、他者を救う説得力はあるのでしょうか。シンプル化してこそぎ落とすことは、そのまま誰かをこそぎ落とすことになりかねません。「福音はシンプルだ」と言う時、考えなければならないのは、「それは誰にとってシンプルなのか?」なのです。