ハロウィンと教会の関係(翻訳あり)

2017年10月30日月曜日

「悪霊」の問題 教会と地域社会 翻訳

t f B! P L
・今年もハロウィンの記事

 今年もハロウィンがやってきました。皆さんいかがお過ごしでしょうか。
 街は少し前からハロウィン一色といった感じです。昨日も仮装している人たちを少なからず見掛けました。年中行事として普及してきている感じです。皆さんの街はいかがでしょうか。

 クリスチャン界隈では、一部でやはり議論が起こっているようです。「ハロウィン悪魔崇拝説」に関する議論です。この議論も秋の風物詩みたいになってきました。かく言う私もこの時期に毎年ハロウィンの記事を書いているのですが。しつこくてすみません(笑)。
 ただ、今年はちょっと趣きを変えようと思います。

・ハロウィンの流行→悪魔崇拝説の流行

 さて、ハロウィンを「悪魔崇拝だ」と主張する人々がいます。カボチャや仮装に悪魔的な意味があって、クリスチャンであってもこの時期に仮装すると呪われる(?)みたいです。
 その真偽は、一旦脇に置きましょう。
 彼らははるか昔、ハロウィンが日本でほとんど認知されていなかった頃から、そういうことを言っていたのでしょうか? いいえ。私の知る限り、言っていませんでした。少なくとも昨今のようにハロウィンが流行る前までは、何も言っていませんでした。
 
 では何故、今になって「ハロウィン悪魔崇拝説」を叫ぶのでしょう?
 おそらく、巷でハロウィンが流行っているからです。
 そして海外から「悪魔崇拝説」が入ってきたからです。
 
 もし流行っていなかったら、彼らはハロウィンなど問題にしなかったでしょう。どうでも良かったはずです。
 もしどうでも良くないなら、つまりハロウィンが本当に危険極まりない代物なら、流行るずっと以前からそう主張していなければなりません。なんなら流行るのを阻止するくらいの気概があってもいいでしょう。でもそういうことはありませんでした。ここ最近(ここ10年くらいで)、急にハロウィンにケチを付け出したのです。なんだか不思議じゃありませんか。
 
 多分あの手の人たちは、ハロウィンそのものを問題視しているのではありません。「流行」に食い付いているのです。だから将来ハロウィンが騒がれなくなり、仮装する人もパーティーをする人もいなくなったならば、彼らも「ハロウィン悪魔崇拝説」など言わなくなるでしょう。少なくとも今ほどの熱量では。彼らの言う「ハロウィンの危険さ」自体は、何も変わらないはずなのに。

 要は、巷でハロウィンが流行っているように、彼らの間でも「ハロウィン悪魔崇拝説」が流行っているのです。善悪の問題でもなく、罪かどうかの問題でもなく、流行の問題です。と、私は見ています。

・不毛な議論でしかないルーツ巡り

 またこういう話になると、必ずと言っていいほどハロウィンの「ルーツ」が取り上げられます。
「ハロウィンの始まりは◯◯です」
「いや、正確には由来は××だ」
「いやいや、実はハロウィンとは△△なんだよ」
 こういうのが繰り返されるので、私は正直イライラします。だってそんなこと言われたって、正誤を確認できないじゃないですか。言われたことをそのまま信じるか、信じないかの二択じゃないですか。でもそういう根拠のない話を鵜呑みにするのが、信仰なのでしょうか?
 
 たとえばある人は「ハロウィンはもともとは悪魔崇拝の大祭典だった」と言います。「ケルト人の生贄儀式に由来する」とも言います。でもそんなこと、もう確認できないじゃないですか。歴史的資料(ただの不気味な画像ではないですよ)があるのなら、開示して下さい。でもないのなら、いったいどうやって調べたのですか? 
 
 偉い人が「実は◯◯なのです」と言い、ある人々は「そうですか」と信じます。でも他の場所では他の権威者が「実は××なのです」と言い、そこの人たちはそれを信じます。そんな話です。それってキリスト教信仰なのですか?
 もちろん、過去を調査することが全て無駄だと言っているのではありません。たとえば考古学的な調査などは有用でしょう。でも「ハロウィン悪魔崇拝説」はそれとは関係ありません。

 要は、ルーツをあれこれ言い合って、ああでもないこうでもない、結局答えが出ない、人をやたら脅かすだけ、そんな議論は無駄じゃないですか、と私は言いたいのです。

・そもそも悪魔崇拝とは何ぞや

 千歩か一万歩か譲って、ハロウィンに「悪魔崇拝的な要素」が隠されているとしましょう。
 では、「悪魔崇拝的な要素が隠されている」から、何なのですか?

 そのへんで仮装をしている子らが、「これって悪魔崇拝だぜえ、ヘッヘッヘッ、すげえだろ」とか言っているのでしょうか? あるいはそう意識しているのでしょうか? いいえ、彼らは単に仮装を楽しんでいるだけです。あるいは親に着せられているだけです。悪魔を崇拝しているのではありません。そして悪魔を崇拝していないのだから、それは悪魔崇拝ではありません。すごく単純な話ですが。
 
 仮に、仮にですよ? ハロウィンの仮装という「行為」によって、悪魔に「呪われる」としましょう。でもそのことを知らないで仮装したのなら、その人に落ち度はありません。そして知らないでしたことは、キリスト教的には罪ではありません。だから結果的に悪魔崇拝に繋がる行為だとしても、知らないでしたのなら、それは悪魔崇拝でも罪でもありません。そんな意識はないのですから。
 
 では、悪魔崇拝でも罪でもないのに、なんで「呪われる」んですか? 神様ってそんなに弱いんですか? だったらキリスト教っていったい何なのですか?

・ある教会の試み

 さて、最後に CT Pastors から、ハロウィン関連の記事を翻訳して紹介します。
 タイトルは"5 Creative Alternatives to Trunk-or-Treat"(トランク・オア・トリートの5つの代案)です。著者はサブリナ・クラウスマンさん。牧師夫人でライターで、著作に "Zombie Christian" があります。教会開拓や伝道活動に力を入れている方のようです。彼女は、教会はハロウィンを利用しましょう、と言っています。ちょっと長いですが、興味のある方はお読み下さい。
 
(以下翻訳)
 
「トランク・オア・トリートの5つの代案 ―ハロウィンを恐れないで、利用しましょう―」
 
 
 今年もやってきました。オバケやゴブリンが近所の通りを闊歩する時期です。仮装した子供たちがクスクス笑って、ドアからドアへお菓子を探し回る時期です。
 多くの人にとって、ハロウィンは楽しい、心温まるイベントです。しかしクリスチャンの間には、この休日をどう扱うべきの議論があります。さてハロウィンに参加することは、ハロウィンを「祝う」ことなのでしょうか?
 その議論の結果にかかわらず、ハロウィンが絶好のチャンスなのは間違いありません。ハロウィンは隣人たちを教会に誘う機会にもなるからです。でも我々は何をすべきでしょう?

 クロスポイント・チャーチ(フロリダ州スプリング・ヒル)の牧師ウェイン・コルドバはここ10年間、「仕える伝道」というコンセプトで伝道してきました。彼はこう言及します。イエス・キリストと初期の弟子たちは、まず人々の物質的必要のために仕え、その見返りとして「福音を語る権利」を得たのだ、と。今日の私たちも同様だと彼は言います。すなわち地域のコミュニティにまず仕えることで、私たちは「聞いてもらう権利」を得るのです。

 コルドバはハロウィン向けの2種類のイベントを提案しています。
(1つは)企画を準備して人々を教会に誘う、いわゆる「来てもらうイベント」です。これは「トリック・オア・トリート」の代わりになります。たとえば伝統的な「トランク・オア・トリート」や秋祭りなどがそうです。私の教会では「来てもらうイベント」としてファミリー・ワーシップ・ナイトを企画していますが、ここで「トランク・オア・トリート(駐車場内を、子供たちがお菓子を求めて車から車へと渡り歩くイベント)」をやります。これはひどく人気があります。でもこの手のイベントは、数ヶ月の準備を要します。

(もう1つは)それとは反対に「出て行くイベント」です。これは教会のメンバーが地域に出て行くものです。コルドバは説明します。「『来てもらうイベント』は教会のマンパワーとお金を食い潰してしまうことが多いですが、これならメンバーが最後まで協力し合って(あるいは仲良くやって)いけます。小さなグループ(数組の家族など)がこの手のイベントを主導するなら、必要なリソースは割と簡単に(グループ内で)集まります。そして地域のコミュニティに仕えるために、(少人数なので)協力しあって働くことができるのです」

 どちらの種類にもそれぞれメリットがあります。企画者はハロウィン・イベントの目的を決め、それに沿った選択をすべきでしょう。ハロウィンに使えそうな5つのイベントを、以下に紹介します。
(翻訳者注:イベント紹介が趣旨ではないので、この部分は簡単な説明のみにさせていただきます)

1.医療フェス
 地域の医療機関と連携し、教会で無料の検診や講習会を開いてもらう。参加者には食事を提供したり、衛生材が入ったバッグをプレゼントしたりする。

2.乾いた骨
 旧約のエゼキエル書から、現代の様々な問題(貧困、人種差別、人身売買など)について認識を深めていく(セミナー形式?)。

3.這うものたち
 地元のNPOや任意団体を招いて展示会や説明会を開催する。

4.逆トリック・オア・トリート
 家々を巡ってお菓子をもらうのでなく、ギフトバッグを用意して各家庭に配って歩く。

5.ハロウィン・ロースト
 教会のセル・グループが主体となってホームパーティーを開き、近隣住民を招待する。

 おそらく誰かがこんなことを尋ねるでしょう。「何故教会がこういう活動をするのですか?」メンバーはこう答えることができます。「私たちは単に実際的な方法で神様の愛を示したいだけです」
神の無償の愛を「行動」で示すことで、私たちは、隣人たちと霊的な問題について話す機会を得ていくのです。

 コルドバは言います。「隣人たちにより効果的に仕える方法を探し求める教会が、いつも、より革新的な方法を見つけ出すのです」

 くわえて、その革新的な方法は人々のハロウィン体験を変えていくでしょう。コルドバはそれを見てきたそうです。「子供たちは、教会員たちの寛大さに触れ、それを真似るようになりました。そして仮装を自慢するためでなく、イベントを一緒に楽しむために教会に来るようになりました」
 ハロウィンを利用してコミュニティに関わることを、教会は恐れてはなりません。コルドバも言います。「ハロウィンは贈り物です。それを利用しないならば、神の愛を人々に伝える機会、人々と繋がりを持つ機会を、投げ捨ててしまうのです」
 
(翻訳終わり)
 
・人々が求めているもの
 
 ハロウィンの善し悪しでなく、利用できるものは利用しよう、という考え方が合理的で私は好きです。それに医療フェスとか、やることが違いますね。日本ではまず無理ではないでしょうか。
 
 結局人々は、ハロウィンそのものが好きなのではありません。「仮装とお菓子とパーティーを楽しめるイベント」が好きなのです。そしてその容れ物がたまたまハロウィンだっただけです。だからハロウィンの深い意味とか、起源とか、そんなことはどうでもいいわけです。悪魔崇拝など、これっぽっちも関係ありません。
 
 だから教会が何か「価値ある機会」を提供してくれるなら、そしてそれが本当に「価値がある」のなら、人々は教会に来るでしょう。すべては選択なのです。そして教会に来ないなら、そこに価値を認めていないのです。ただそれだけです。霊的とか悪魔とか、関係ありません。
 
 一部のクリスチャンは今年もハロウィンの起源がどうとか霊的にどうとか捏ね繰り回していますが、はっきり言って何の役にも立ちません。そんな暇があるなら上記の教会のように、地域に出て行ったらいいでしょう。もちろんそこで悪魔がどうとか言わないでほしいですが(笑)。

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