五役者って回復すべきなんですか?

2018年12月17日月曜日

教会生活あれこれ

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 聖霊派の一部の教会群では、「五役者の回復」なるものが言われて久しいです。
「使徒」や「預言者」といった五つの役職が、この「終わりの時代」に回復する、というわけですね。

 で、実際にいくつかの教会の牧師さんたちは「使徒」を自称しています。どういう基準なのかよくわかりませんが。
 また単に「牧師」という名称を、「使徒」に変えただけって気もしますが(アニメ『エヴァンゲリオン』の使徒と間違われないことを願うばかり)。

  あるいは自称しなくても、まわりが「使徒的だ」と呼ぶこともあります。
「あの先生は使徒的油注ぎがあるね」とか、「彼は使徒として召されている」とか。

 たとえば使徒パウロは宣教旅行を通して各地に教会を作り、それぞれに手紙を送って指導したり、監督したりしました。それに倣って、現在も複数の教会に定期的に関わるグローバルな牧師(宣教師)を指して、「使徒的な働きをしている」と評するわけです。「使徒」なのか「使徒的」なのか、やはりよくわかりませんが。

 私の教会に以前、シンガポールからAさんという牧師が訪れました。アジア地域で複数の教会を築いてきた(らしい)人で、やはり「使徒的」と呼ばれていました。「五役者の回復」の文脈で言えば、きっと「使徒」と呼ばれるべき立場の人でしょう。

 私個人は、Aさんが「使徒」であってもなくても、全然構いません。そこに神学的基準があるのか、誰がどうやって決めるのか知りませんが、そう言いたければ言えばいいと思います(実際パウロも、使徒を自称したはずです)。

 ただ、現在の聖霊派教会群における「使徒的」という言葉は、どうも「実績ありき」な気がします。

「これだけの教会を建て上げた人だから(使徒的だ)」
「世界中を忙しく飛び回っている人だから(使徒的だ)」
「複数の教会に影響力を持つ人だから(使徒的だ)」

 華々しい実績があるから、(結果的に)「使徒的」という称号が与えられる、という面があるように思います。つまり「後付け使徒」みたいな。

 ということは現在、「使徒」とは「任命」されるものでなく、「評価」されるものだ、ということです。
 それが聖書的かどうかという話でなく、事実としてそうなっている、という話ですが。

  また「使徒」と「評価」されたところで、本人や教会員は嬉しいかもしれませんが、未信者の方々には何の関係もありません。新しく教会に来た未信者の人に「この先生は使徒です」などと紹介したらどうなるかわかりますか。高確率で『エヴァンゲリオン』を連想させると思いますね。そして頭の中を「?」で一杯にするだけです。

 それにしても私の教会のような聖霊派教会群は、「◯◯的」という言葉が好きだなあとつくづく思います。
「霊的」「使徒的」「預言的」「啓示的」「ユダヤ的」などなど。

 いろいろな「◯◯的」を作り、それを聖書信仰のように見せかけて(あるいは思い込んで)いますが、実際のところは、曖昧な表現にして信仰を濁しているだけだと私は思います。そうやって物事を曖昧にするのは日本人の得意とするところですから(それが良いか悪いかは別にして)、仕方ないかもしれません。

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本記事はメルマガ第49号(テーマ:使徒的教会とセルグループ)の一部を抜粋、編集したものです。

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